昨日、2年半ぶりに法教育を都内中学生に対して行ってきた。

復帰戦とかいう感じで、少し緊張して、血が冷たくなっていく感じがあった。

 

総じて、レベルの高い生徒に私の授業が助けられた、という感じだろう。

犯情とか一般情状とか、きちんと理解して、ワークシートに書き分けられていたし。

素晴らしいなと思った。

決して、偏差値とかで人間の価値が決まるとかは思っていないのだけれど、やはりそれなりに偏差値の高い学校には、相応の子がそろうわけで。

中には、内容としては誤りがあったにせよ、責任能力の話を展開する中学生がいるなど、このまま加速的に成長して欲しいと願える子もいた。

 

さて、裁判員制度。どういう意味があるのか。

訴訟実務からは、今のところ足を洗っている私が、やれることはなんだろうか、とすごく考えこんでしまったのである。

従前の裁判制度に対する批判、国民主権との関係、一部のエリート集団が決めてしまうことの意味などは思いついた。

そして、評議の過程では、自分なりに結論と意見を出していくことが重要だと思い、そこをプッシュした。

それでも、裁判員制度の重要なところは

・裁判体が変われば、結論も変わるところ

・多数決で決まることになると、必ずしも反対の立場もそれに従わなければならない。そこに権力的バックボーンがついて、強制的にその通りになること

・そして、国民が裁判員として意見を発信することで、一部のエリート層だけの権威的な判断の濃度が薄まり、それが権力に対するけん制にも繋がるというところ(正に、主権者としての国民が司法にもメスをいれようとしていること)

らしい。

僕は、若い子が、よく考えずに発信力のある人に従ったり、横流ししたり、知識偏重で考えずに行動したりして、自分の意見を言わないところに問題意識を持っていた。だから、まずは、自分なりの意見を確りと発信することに重きを置く授業を展開した。

しかし、これ自体は、裁判員制度の根幹を教えるという点からは、やや物足りない内容であったということである。

 

難しい。

自分がこういう人間を目指してほしい、と考えるのは、自分のエゴなのかもしれない。

自分も別に不完全な人間ではあるのに、その不完全なn人間が、こういう人物になって欲しいと考えるのは、些か問題もあるのだろうと思う。

それなら、制度を教えるってことに徹すればよかったか。

うーん、それでも、個人的には自分の意見を言うというプロセスを飛ばせば、結局、好きな子が言っているからとか、人気者が言っているから、ということになって、そもそも、一部のアトラクティブな人材の意見しか反映されなくなってしまう、と考えている。

だから、いきなり、多数決ということはよくないと思う。

数の暴力。

どうせ、負けると思ったら、別に意見なんて言わなくてもいいっていう思考になってしまう。

本当の多数決は、意見や材料が出尽くしたのちに、やるものだ。

判断罪材料の少ない多数決は、適切な民意の反映とは言えないと思うから。

 

だから、おれはまぁ、いまのところ、俺なりのやり方で、裁判員制度を伝えていきたい。

ゴールを急いでも仕方ない。