僕は、かなり好きでした。

久々に泣いたし、すごく感情移入してしまった。

僕は、もう少し少年で、純粋な方の人間だったかもしれない(大人になりきれていない)。

 

(日本の)現実社会の景気は、上向きの部分もあるが、それは貧富の差が拡大しているがために、中間層の解体が進み、全体のおおよその総意として、景気の良さを実感できていない。

数日ぶりにビッグマックを食べて飢えをしのいだり、義務教育が終わっていない子供たちが身を寄せ合って過ごすなんてこともある。

ただ、幸せの定義は、人それぞれで、それでも楽しいって思って生きている人もいる。これは、救いなのかもしれない。

 

そして、匿名で情報発信ができるようになった現代人(特に若者)は、意見や主張を拡散して、大きなうねりを生み出すことができる。

この閉塞感がある日々の中で、一発逆転に近い状況を得たいがために、救世主を欲する。

自分にはどうにもならないから、救世主を欲して、祈る(縋る)。

救世主が世界を変えてみたら、その点で幸せになる。

でも、その人と救世主の間には強い繋がりもなく、だから、特別な感謝もなく、それで終わる。

頑張っている人がいるのに、自分が助かったら、それでいいやってなる。

そして、また同じような閉塞感を抱けば、また祈る(縋る)。

閉塞感が続けば、その救世主を犠牲にしてでも、助かりたいとそう願う。

純粋な救世主は、自分を捧げてしまうだろうよ。

感謝もせずに、恩恵だけ、もらう。

なんだろう、人間の感情の取引は崩壊しているんだと思う。

 

他方で、誰かが助かれば、誰かは困るかもしれない。

救世主の救済は、本当に、救済ができているといえるのか。

目先の変化にとらわれ、細部や背景の分析を蔑ろにしていはいないか。

世の中が等価交換なり、限界がある広がりだとすれば、結局、どこかによどみや皺寄せは起きる。

その奥にいる人について考えたことがあるだろうか。

正直者は、損をする。

自分だけが助かればいいでいいのだろうか。

僕が必ずできているとは思わないけど、考えることさえ放棄している人がいるのは、よくないと思う。

 

この純粋さは、少年少女にしかできないかもしれません。

大人は、年齢、地位、お金、気力、体力、仕事とかで、がんじがらめ。自由はそんなにない。

自由はなく、責任はある。

そんな中で、純粋さとかお金にもならない、ストレートな解決策など見いだせない何かに想いを致すことなんて、できない。

選択肢や優先順位で身動きがとれないのが大人。

大人になるっていうのは、そういうこと。

僕は、モラトリアム中だからこそ、まだ、その大人の無関心さへの自認や、懊悩をリアルなところで把握しきれていない。

 

それでも、祈り続ける人はいました。

自分に力がなくなったとしても、それでも、世界が良くなるように祈る人はいるし。

みんながそれを見て、変わるなんてことはあり得ないと思うけど

みんなが幸せになるように、考えている人がいるってことがわかっただけで

この世界は少し明るいし、ちょびっと嬉しい。

幸せに大小はないから、これも立派な幸せの1つであると思う。

 

ざっと考えてみた。