以前にも、書いたかもしれないけれど、改めて。

 

大学を卒業するまでは、この體育會の肩書きを存分に使ってきた。

やはり、どんなに謙虚であろうとしても、この肩書きの機能というか効果は大きい。

それに、所属大学のネームヴァリューもあいまって。

でも、ちょっとこの世界を脱すれば、この肩書きなんて、ただの肩書きでしかない。

それ以上に何か優遇されることもない。

ただ、この形式的側面の束縛力というか拘束力は強くて、気づいたら、この肩書きに戻って状況を打開してやろうとしてしまう。

なんとも弱い人間よ。

 

だから、ここで実質的な部分について論じてみたい。

将来の選択に悩む時分にあって、とても感謝していることがある。

それは、あの極限状態ともいうべき體育會生活の中で、自分がどのように振舞っていたのか、どんな役割を担っていたのか、どういうことに頑張れたか、何が苦手だったのか、自分の組織内の位置付けはなど、自分の性質を判断する材料を入手していたのである。

體育會至上主義ということではなく、普段何気なく過ごしていると、全く感得できない自分を見出せる。

法律学的にいえば、権利は観念的なものであるから、目に見えない。だからこそ、その権利を発生させる法律要件に該当する具体的事実を集めてみようとするのだけれど、その具体的事実こそが、體育會活動における自己なのである。

物や他人の中に私が残した爪痕、余韻から私の像が浮かび上がってくるのである。

それを集積して分析することで、自分というものをある程度客観的に判断できるのである。

 

だから、改めて、體育會活動を選択したこと、やり切ったこと、続けられるようにサポートしてくれた人、一緒に頑張ってきた仲間に感謝しているのである。