サーヴィス業とは全人格を動員して、または等身大の自分をぶつけて相手方と接触し実践するものだと思っていた。
ここには、熱意が入りこみ、相手の感情に訴えたり、刺激的な時間を提供できるのかもしれない。
しかし、人間は不完全で不安定なものでありますから、個人を取り巻くバックグラウンドによっては、気持ちが盛り下がってるときやテンションがどうにも上がらないことがある。
それで相手方に接することもあると思う。
これは、名目上、誰もが利用できるサーヴィス業に不公平を生じさせるし、質を下げることもある。
だからこそ、サーヴィス業においては、個性やセンスを排除するという考え方をあえてとることもあるみたい。
この考え方は、昨日のお店の店長と話している中で聞いたものである。
考えたことなかった。
これを現在の社会情勢と併せて考えてみる。
いわゆるインスタ映えという考え方、承認欲求のフェーズは終わりが近い。
今後は、仮想通貨やキャッシュレスといったこれまでのお金の概念を再考させる手法が台頭する。
信用や公平の世界である。
だから、かなりザックリと考えれば、サーヴィス業において、常に一定のサーヴィスを行うことが次世代の基盤となる考え方を履践しているのではないかと思うところなのです。
それにしても、一定のサーヴィスを安定的に供給することの難しさよ。
常に、自分が基軸となるゾーンからどれだけ離れてしまったのかを正確に感知しなければならない。
それだからこそ、まずは等身大の自分を知ることを避けて通れないのではないかと思うのです。
自分の伸ばした腕は誰に届くのか、声はどこまで届くのか、考え方はどの分野まで侵略できているのか。
うーん。精神の前進。