やはり思うのだけれど
われら人間固有の持ち味というのは、未来を創造することだ。
だから、クリエイティブでいなければならない。
それは、アーティスティックという意味と完全な重なりがないと思う。
リバタリアン・パターナリズム。
強制によらず、個人の選択と自由を尊重しつつ、個人がより良い意思決定をするための後押しをするという考え方。
自律性をもつAIが台頭した場合、これによりナッジ(=人々をより良い選択に向けて誘導する行為)という手法が採られるようになる。しかし、個人にとってよりよい選択の判断基準は難しく、果たして実現可能かは不明である。
だから、人々が選択の場面で脱退する、つまり、オプトアウトの選択肢が残されているといえなければ選択の自由が尊重された世界とは言い難い。また、選択の透明性の確保である。どういった仕組みで選択肢に登場してきたのか。
自動的に選択肢が与えられ、無意識的に受容することが増えれば、人間の動物化が進行するともいわれる。だから、環境の整備と、個々の人間に未来を創造する意欲がなければならないと思う。
そして、選択肢が与えられるという環境。過去の事例からみて、最適な選択肢が与えられるということだが、ここには偶然の発見(=セレンディピティ)がいかに組み込まれるかを考える必要もある。
これは、自己実現を充足感のあるモノと捉えようとするときに大事なことではないか。
自分が歩む路線を決められない。自分で決めたい。
超個人主義。
憲法学の山本教授曰く、AIやネットワーク社会では、過去の自分の選択に基づいたレコメンドやアルゴリズムそのものによって人生が決定され、そこから抜け出せなくなるという可能性(=確率という名の牢獄)がある。
効率化やルーティン化が、生活に与えるプラス要素は大きいけど、弊害もあるだろう。
どれだけ新しい出来事に向き合っていけるか、そのチャンスがあるか。
人間らしく生きるために、自分でこのような環境を整備したり、その環境に飛び込んでいく姿勢が重要ではないのか。
だから、そういう挑戦ができるところにいたいと思う。
でも、それと国家のために働くことは互いに排斥関係にないと思う。
やれる余地の問題か。大義名分の問題か。