今のところ、考え得る人生の選択肢は大きく分けて2つだ。
1つは初志貫徹という感じでP。
もう一つはインハウスロイヤーでビジネスジャッジのできるBとなり、尊敬する體育會の先輩の片腕になること。
前者は、正にこれまでの人生で懸けてきたことだと思う。
後者は、自分がこれまでの人生で精神も肉体も削り、知力も絞ってきた時間の延長戦ということだと思う。
聞き分けのないことを言うつもりは全くない。
また、その視野は狭いことも重々承知している。
體育會の熱い想いは體育會を過ごした者にしか分からないなんて排斥主義を全面的に主張したいわけではない。
ただ、事実として、體育會のあの思い出は、後にも先にも経験し難いものだと思っている。
自分の目標のために、自分の全てを投げ打って、何かに打ち込むこと。
今後所帯をもち、愛する人や子どもを養う立場の人間が軽はずみにできることではないと思う。
それが充実しているか核にするに値するものであるかは、やはり自分をどれだけ懸けられたのかで決まるのではないだろうか。
これから先の未知の世界では、違った種類の充実さを得ることはできると思う。
それは否定しない。
しかし、あのときの興奮に魅せられた男子としては、そこから思うように離れられないのである。
やはり、男子は阿呆である。
何事にも代えられない経験を得たくて、あの體育會という組織に入った。
だから、こういう選択肢を考えることは、至極当然の帰結だと思う。
今の自分があるのは、その人のおかげだ。
一生傀儡とかそういう生き方ではない。
自分なりに活躍できる姿で、その人に尽くす。
そして、それがひいては、自己、自分の家族、会社、日本経済に影響を与えることになると思う。
そうなら、別に悪い話ではないのではありませんか。
一般論は大事だ。
しかし、一般論があっても、鮮やかに色づけされたものは、塗りつぶすことができないのもまた事実である。