教育というものには様々な形がある。

もちろん、無形ではあるが比喩的に。

 

教育で重要なことは、とにかく熱意だという人もいれば、感情的な曖昧さは何も残らないとして、手堅く及第点を狙うこともある。

教育を授業として枠で捉えることもあれば、ボランティアと捉えるものもいる。

これは、各々の立場や思想の違いである。

公教育だとしたらある程度の統一感をもってもよいと思うが、その統一感の程度というものがこの人間社会では画一的に設定することができない。

また、実際の教育現場で、熱意で押し通すことと冷静に落としどころを見極めることとのどちらを採用するか、咄嗟の判断は極めて難しい。

その一回の教育の機会に1つしか選択できず、事後的に検証できることはない。

後悔とか反省とかそれだけが後に立つ。

 

どの層に必要なのか。

正直、人間には能力差がある。とくに、法律いや勉強に抵抗がある人ほど、法的なものの考え方、意見をもつこと、法的な知識を得ることは必要だと思う。

だから、どんなに実際の教育現場で跳ね返されたとしても、理念や目標がある限り、諦めてはいけないのだと思う。

教育にはオワリはなく、カタチもない、そして、とにかくやる。

 

熱意ではなく及第点を採りに行くということは、相手を見限っていることにはならないだろうか。

それは相手に失礼ではないか?

そういったキモチが伝わってしまったのではないか?

 

とにかく、落胆と再起が入り乱れる。