何事にも全力を尽くす。
これは、結果が芳しくなかったり、そもそも不可能なことへの挑戦であっても、本質は諦めなのにもかかわらず、それを感じさせない美しさと器用さあります。
不可能を可能にするのは、結局脳内、つまり主観的な世界に限られており、現実世界で不可能が可能になることはまずない。奇跡にも限界はあるはずだ。
でも、オトコとして単に諦めるということは格好が悪すぎる。
だから、単なる諦めにならないように生きるのがやり方であります。

さて、そんな私にも後悔はやはり訪れます。
それは、俯瞰的なモノの見方ができるようになったからでしょうか。
過去を見ようとしてみたからでしょうか。
きっと今の興味関心から考えれば、最適な選択がほかにあったはずだと、しかもその選択が何なのかに気づいてしまったからでしょうか。
25年生きてきて初めての感覚です。後悔がやや身体の内側にもたれている。
動き回り辛いわけではないけども、何かある。

諦めとの件で何が関係するのかと言えば、単に今抱えている気持ちを書き連ねておこうとかそういうことなのかもしれません。
諦めるという選択をしなくても後悔することはあるということでしょうか。
それは、正に、運命にしてやられたような気分になり、自分の人生と常に背中合わせなものなのに、やたら裏切られたような気分になります。
しかし、私はそれすらも運命とか正解と言って上書きしようとしています。
そこには、全力で尽くした感覚があるからでしょう。
つまり、過去のある時点において、私は挑戦することもできないものがあったということ。
これは、いわゆる不可能な次元のお話ですから、努力とか全力とかによって叶うものではありません。
だから、涼しい顔で、この私の心にやんわりとすくう後悔を眺めることにしました。