戦いの途中で敵への憧れを口にするなと、烈は叫んだ。
その瞬間、敵ではなく何か違うものに変わってしまうように思われるのです。
ですから、そこからは戦いではなく、消化試合のような感じになります。
つまり、そこでは相手を超えるとか倒すとかいうキモチはなく
自分の実力を出して、その実力が相手に見せられているというところで終わってしまっているように思われるからです。
相手を超える気が無いなら、勝負はしないほうがいいと思います。
別の観点からいうと、憧れと羨望の境目は常に虚ろであります。
行ったり来たりを繰り返すわけですが、感情の光陰が激しく入れ替わる。
果たして、本当に尊敬しているのかわからなくなります。
オトコとしては、何事も世界で一番にならなければならないという考えに乗りますと、どうにも、憧れということはしてはいけないような気がしています。
羨望から嫉妬をし、嫉妬が戦いを呼びます。
オリジナルに拘りたい。
そこには、憧れという想いはあっていいのか。
どこまで、その線に乗ればいいのか。
乗るべきなのかわからない。
しょせん、赤の他人であるとして、乗り切れないことのほうが至極当然であります。
内面と外からの評価で決めるべきなのでしょう。
それにしても、憧れは、個性を没却させる力もあります。
ゴール地点は違うのに、無理に一緒に進んでいこうとするそんなイメージです。
自分にとって無意味な場所に到達するし、甚だ自分の目的地へは遠回りでありましょうし
このような点から考えれば、非常に非効率的なのです。
私は、効率的ではないものを嫌うことが多いのですが
そんな風にかっこつけたとしても、どうせ、私の各所では非効率的に物事が動いてることがままあります。
超えた先に何があるか。
似ている女性をお嫁さんに呼ぶのか。
違いますね。
私は、私の道を進むしかありません。
自信とは結果を出したことの言い換えでしょう。
思ったより軽んじられて見られているかもしれません。そんな時に、過剰に意識するのも違います。等身大プラスアルファの自分を全力で見せていった先に得られるものがあると思われます。
自分の趣向と社会で通用する物事のバランシングなわけです。
どちらを重くとらえるかは、結局その人次第ということでは?
自分に合わない世界で生きるよりかは、
自分が活躍できる場所を選んで、生きるほうが何倍もいい。
親和的で世界を的確に察知していくこと。
人は完璧でありませんから、完璧を見出し、絶望することは、
無駄なんだと思いました。