来るもの拒まず、去る者追わず。
私は、この言葉に幾らかの修正をかけている。
来るものは当然に拒まず。
去る者はひとまず全力で追いかける。だけど、全力を出してかなわなかったら、潔く諦める。一切振り返らない。
結局、どちらが冷淡なのかは分からない。
だから、追いかけないようにしなければ。
どこかかなわぬところで、スパッと終わる。
同じ時間を共にするために、釣りをするかの如くエサ付きの針を投げ入れる。
ひたすら待つ。魚がヒットするまで。
エサだけくわえられ、逃げられたら、もうたぶん釣りはしないだろう。
どれだけ、気持ちを込めても、ただの弱々しい波長でしかありえず、並々ならぬ思いとは裏腹に波波を越えてキモチは届くことは出来ない。
電波とは便利なものなのに、実態は大変弱々しい。
学問や現代文学、近代文学、プールは逃げないから好きだ。それだけ。
嫌いな側面をも知ることが、そのものを深く理解するために必要なのだろうけれど
それは対象物に二面性(以上)があることが大前提。
生まれながらにして抵抗がないときは、そのような理屈は立たない。
十中八九、時間や精神は、物理的なものを越えられない。
それが分かっているのに、その選択とは、よく分からない。
そして、キモチは伝えればいいのか?
違うだろう。
共有って、報告とは違う。
時にリアルタイムで、その瞬間思ったことを話せるような環境がとにかく必要なのである。
そうじゃないなら、定型に溺れた体裁マン。
キモチを弄ぶのは良くない。
それだけだ。
直接話さないと伝わらない。
終わりの少ない自分だったけれど、内に秘めたる終わらせ方は、厳格なものであろうと思われる。
いつか自分のそれに、乗っ取られないようにしないと。
あらゆるモノから手を引きそうだ。