先日、埼玉県草加市で発生した過失運転致死事件の話。
歩道を歩いていた母親と次男坊に向かって、急にトラックが突っ込んだ。
トラックの運転手は、スマフォをいじりながら運転していた。
結局、母親は死亡。次男坊は、軽傷。
次男坊が軽傷で済んだ要因は、母親がトラックが直撃する寸前、次男坊を安全な方へ突き飛ばしたからと言われている。
咄嗟のときに、自分(の生命)をすてて、そこまでできるだろうか。
咄嗟のときといえば、事後にその人自身が振り返ることは、およそかなわないのだから、意識があればあの世で思うしかない。
残された人は、客観的に振り返る。
だから、いつ人生を切り取られたとしても、自分の中のプライオリティを明確にしておく。
さすれば、迷うことなどないと思われる。
自分の肉体やココロが果てても、何を残したいか、何を護りたいか。
そういうことだろう。
まだワタクシ、24歳という若造ではありますが、プライオリティは現時点では確定している。
あとは、相当な反射神経と瞬発的な判断能力が確保できていれば、実現可能である。
アニメの一節のようなものなのだけれど
おまえに護るものがあるか?
と聞かれたら、今までは答えられなかった。
しかし、いまは、違うだろう。
それが、一瞬一瞬の生き方を力強くさせる。
法的には、防衛的緊急避難の事例ではある。
母親の次男坊に対する突き飛ばし行為は、傷害罪の構成要件該当性があって、違法な行為ではあるが、違法性阻却事由があるといった議論をすることになる。
親子愛に裏打ちされた、親として子どもを護るというキモチからでた行為に違法性を一度認めることには、多分に違和感があるだろう。
これが、理屈であって、現実の感情に馴染まない瞬間であり、やや心苦しいのである。
そうすると、理屈って、ゴミだなって思うとき、ということになる。