当たり前のことをしみじみと考えることが多い今日この頃。
さて、独身からフタリになるとは、どういうことかと言えば
パワーがもらえたり
時に支えてもらったり
愛する人を通して新しいセカイをみる。
新しいモノを創り出す。
生きモノか。
フタリでいることによって、今まで繰り返してきたことをやる時間が変わる。
柔軟に対応したり
自分が折れたり
逆に自分のアイデアを採用してもらったり
プラスとマイナスの応酬の中で生きていくことになる。
魚心あれば水心。
自分がやってることが抽象化されたところで、相手も同じことをやる。
だから、目くじらを立てたりするのは、自分すら分かっていないということだから、相手を愛する資格がそもそもないと言えるのである。
これは、久々に鼻血を出したからこそ、気づいたのである。
本当はヤバくても、でも、キミなら大丈夫とか、いいやとか
そういう風に思えることがフタリでいるこたなのかもしれない。
どんな犠牲も厭わない。
そういうことではありませんか?
相手と過ごすことによって、もっともっと自分を客観的に分析していかなければならないと思った。
似た者どうしだから、くっついたのであれば、なおさらであろう。
そこで問います。
フタリでいることって、これで合ってますか?

Oくんの話を聞いていると
信じあっていることが伝わってきた。
この一点については、尊敬した。
キミはバカにするのかもしれないけど
人間は、切り取って切り取って、切り刻んで細分化して
トピックごとにわけて
観察する必要があるから。

フタリでいられないときに何をする?
相手を想うのは、第一。
相手について勉強することは、第二。
およそ出来ないことに真正面からトライして、想定通りの結果に、打ちひしがれて過ごすよりも
できること探そうよって話。
出来ないことにトライするのは、時間の無駄。
幸せは逃げる。時間は有限。
やれること探して、ワクワクしながら、履践していくことが重要では?
いまよりも、もっともっと知る努力をしないといけないし、できるはず。
もっともっと、深く掘り下げていく。
無尽蔵だと信じて。
知れば知るほど分からなくなるお勉強のように。
あぁ、似たようなこと、アインシュタインも言ってたっけな。



効率的に相手を想い
そして、取り急ぎの充実を得ることが肝要なのである。
その積み重ね。
定型で勝負は、ご法度。
日々、戦いだ。
収集しろ、情報を。深く知れ。
死ぬまで攻略を続け、我が身が朽ち果てるときに、全てをストップする。
いや、しかし、これほどまでやれば、余韻が。どうやら、死ぬだけじゃ終わらない。
死後に、化けてでよう。

以上がフタリについての考察。
散らかったが御免。
初めて考えた。