たとえば、僕にできることはこんなことかな。つまり、書くこと。

昨日は、とってもシリアスな話になってしまい、まことに恐縮。

事案が特殊な場合であることを読み取って、対応してくれればいいのに。

その経験値に蓄積された一般論をすかさず行使してくることにつかれる。

たいした攻撃能力もないのに、なぜだか、何度も何度も言われると、それなりに硬質な盾にも傷がつく。

よってたかって、青二才をいじめるなどとは卑怯であろう。

誰からも理解されない ではなく 誰にも理解できない

事柄がこの世に存在するかもしれない。

自分は、それなりに平均的な男子の道を歩んでいたと思っていたからこそ、初めて特殊な事例に遭遇しているのである。

そこに行きついて思うのが、既述した点である。

その一般論とは何なのだ?

この私に、平均的なルール、当たり障りのないルールを教え込もうとしてくる。

しかし、私にとって、平均的なルールはすでに、お勉強済みである。だからこそ、違うことを言ってほしかった。

これは、こういうことでしょう。これは、ありえないって。

そうやって、私が大事にしているものを傷つけるのはやめてくれないか。

たとえ嘘でも、だまされたとしても、自分で決めたことだから、誰も恨むつもりはない。

一人の人間の決意をもう少し尊重してはくれませんか?

私は、決断には責任が伴うものだと思っている。

誰のせいにもしないために、さまざまな分析をして、いまここに立っている。

自由にやってもいいが、責任はきちんと自分が負う。

我が母校の教えの一つである。独立自尊の精神である。

だから、揺るがない。私の中で一貫している。

 

類型的であることは、ある場合、個性的であるよりも強烈であると、Mは説く。

まさに、実例が目の前に置かれている。

大変に強烈よ。

私が、私の命を賭して大切にしたいものは、誰にも、文句言わせない。