私の存在の色は何色だろうか、ふと考えることがある。
存在の色というか、思想の色。
思想の色と言われると、えてして当該者の思想内容から色を決めてしまうきらいがあるから、難しい。
思想の内容から連想されうるものではなくて、純粋な思想の色。
ここら辺になってくると、もはや、文章にもしづらくなってくる。
感じて欲しいところだ。
私は、とある文学を少しずつ読み進めているところであるが、数ページ読んだだけで、早速、その影響を受けている。
高尚な文章を読み、ありがたい説教を作者から甘んじてうければ、その行動規範に直ちに変容をもたらすことがあると思われる。
しかし、私の場合、思想の方向が変わることが多いのである。
方向、いや、毒されるのである。
読解という点で難解な文章を読み進めていくことで、自分が日々悩んでいたトピックがとたんに解消された。
難しいと喘いでいた時間が嘘のように。
それなりに肉付きのある文章を読んでおって、なかなか呑み込めない考えに弄ばれていたのであるが、それが正に骨や皮レヴェルの代物であったことに気づいたのである。
つまり、そのようなものにアタマを使っていると、一向に読み解けない文章というものがあるのだ。
モノゴトに集中することは大切である。
しかし、その集中は、自分の世界に自分を追いやってしまうことが多く、絶対的な観念でしか語れなくなってしまう。
対極の概念は、必ず、二つとも取り入れなければならない。
日々、その辺に転がっているものすら、見落とさない、見逃さない注意力とは?
大好きだったら、何一つ見落とさないようにしなくてはならない。
飛行機がもう間もなく、滑走路に飛び込んでくるとき
一般人は、飛行機のコックピッドから眺める景色の変化しか語れない。
しかし、滑走路が自分の乗る飛行機に近づいてくるのだ。
めぐり逢ったすべてのものから送られるサインをのがさないように。
視界にはいるすべてのものに色付けをせよ。
めりーくりすまっす。