世の中、往々にして、原則論が一般論と多分に重なり合いを持っている。
日本社会なら尚更かもしれない。
つまり、個性を尊重する暮らしをうたうわりには
べき論で縛り付けてくる輩が多いということだ。
こうあるべきだ。
たしかに、一度は考える。
私が、一般的なコミュニティで生活をしていないから、それなりに変だと言われることが多いとしても、それなりの常識は備えているところであるから。
耳が痛いほど言われる。
思う。
痛切に思う。感じる。
私もその例外に加担し、助長させているのではないかと疑われる。
例外に加担することによって、相手の姿勢にかまけて、結局は相手を利用して自分を満足させているのではないか?
と考えることになる。
私は、その人をよく見て味わいたいから、例外と深く向き合ってみるのだけれど
私の中の常識の血が拒絶反応を示すことがある。
だから、私は行ったり来たりする。
徒労に終わるだけではなく、苦しさもある。
例外と深く付き合うことで、例外をよく味わいつつある今日この頃であるが
自身の客観さというか、自分を保つのにエネルギーがいる。
それだけ例外というものが、原則にはない波風を立てるエネルギーをもっているのだから、仕方ないのだが
やられそうなときがあるのである。
私は、おそらく最も押しつぶし難いキモチを、無理やりに圧縮して生きてるのかもしれない。
私がカラダを鍛える理由に1つ加わったやもしれん。
なぜ、相手の武器をうまくやり過ごしたのにもかかわらず、傷だらけになりそうな未来を強くイメージしてしまうのか。
しかし、幾らかの出血がむしろ心地よいと感じるのなら、こういう生き方も悪くないんだと思う。
ワタクシは、どこか小説のセカイに迷い込んでいると思われる。
抜け出すためには、ケリをつけなければならない。
そこでは、ワタクシは、どうにも主人公で読者と違って、先をすぐさま読み進められない地位にある。
一度くらいは、物語のセカイに迷い込みたかったから、その点では、悪くないのだが。