「思想は覚悟である。覚悟は長年にわたって日々確かめられなければならない。」
たまたま思想に関して、新たな示唆を得たところである。
かの有名なM先生の教えである。
思想が完成した暁には、この思想が一挙手一投足、生活のあらゆる場面で実践しなければならないと考えている。
これを過去に使っていた幼稚なコトバで表現すれば、「金太郎飴みたいな生き方」ということになる。
仮に、自分の身が精神的にも物理的にも引き裂かれることがあったときに、その傷口からは涙や血液と共に、思想がポタポタと滴り落ちなくてならない。
それが一貫性のとれた生き方であって、他人の予測可能性を害さないためにも、いや、それは表向きな便宜的な理由で、結局は、前者のためなのである。
考えを確立すること、ルール通りに生きることが、人格の完成だと思っている。
そして、そのためにはまず築き上げてみること。
その築き上げたものに対して、事あるごとに環境の変化があるごとに、検討をし続けること。
変わることを恐れず。
それがたとえ、今までの生き方を無視するものであっても、そこには必ず連続性を証明してくれるものが存在する。
自分のこれまでの人生に空白がないはずだから。
変わることが怖いとしたら、その変化の証拠を掴んでいないから、周りの目を気にしているから、地位やら肩書やら金力にすがろうとしているから。
自分がやりたいことはこちらだと思っていても、それが違うときがある。
自分と向き合うことを忘れてやしないか?
思想が完成したのち、裏打ちされたのは覚悟。
覚悟というコトバがこれほど力のあるコトバだとは。
長年にわたって、確認すること。
しかし、思想の完成とはゴールのない目標なのである。
死ぬまで、変化が起きる。
その変化を感じて検討を続ける。
それを死ぬまで繰り返す。
死ぬときに、ちょうど思想が完成していると言えるのか?
半直線のような軌道を辿るしかない。
それに比べて、カミサマの宗教というものは?
ゴールが用意されている。
その教えを忠実に実行することが完成。
それ以上新しい解釈が生まれないとしたら?
これは宗教に対する批判ではない。
現実的に考えた。
型にはまりたくないと考える。
宗教では、世界を変えられない。
だって、同じ主張しかできないから。
乱暴だと思うのなら、それまで。
劇的に変えたいなら、ヒトとして自己の思想のみに依拠し、立脚していくことがいいのではないか。
頭でっかちで、他者を排斥するような思想を指しているのではない。
思想を覚悟として、一貫性のある考えの下、行動する。
責任があって重みのある考えを発信することになる。
それでいて、でも、長年にわたり自分と向き合い、その思想を覚悟を点検するのであるから、実は柔軟なのである。
もう少し、自立しないといけない。