考えることは接近することだと思う。だからこそ、慎重にならなければならない時がある。なぜ、考えるかといえば、目の前の何かがいったいどんな性質を持っているかを解明しなければならないからだと思われる。知らないこととかわからないことは怖い。自分の与り知らぬところで、モノゴトが動いていくことほど怖いものってないんじゃないか?それが、平気だと豪語する者とは一生分かり合えないかもしれない。自然に身を任せるとか、誰かに決めてもらうことを良しとするその自らの行先を委ねるがごとき、無責任な生き方だけはしたくない。運命とか信じていないとは言わない。(運命を信じないけど、奇跡は信じないという人もよくわからない。奇跡って、運命の下位概念なんじゃないかって最近は考えているから)。運命は変えられると思うから。自分が変わることによって、相手が変わることによって、著しくそのカタチを変えていく。むしろ、脆弱な存在だと考えることもできる。さらに、そこまで考えれば、運命とはもはやこの世に存在しないのではないかとさえ考えるのである。後半に関しては、考えが成熟していないから、今後の動向に期待されたい。さて、考えることは接近することだと言った。自然と距離が縮まってしまうこと、その対象をよく知ってしまうこと、それは自分にとって、極めて危なっかしい。私のココロは、ある一定の温度を過ぎると、どうにも熱の伝導率が良くなる(これは、まるで、乳酸値と運動強度の関係のようなんだけれど、これは割愛)。相当の自制心をもって、事にあたらなければならない。客観勝負。主観に流れたら、ブレーキって効きづらい。そのように考えると、自分のあらゆる日常生活において、自分でブレーキをかけることが可能な程度でしか、稼働していないのではないかと考えてしまう。これでは、精一杯生きていくというカミサマからヒトがイノチを頂いた交換条件を守っておらず、背理なのではないとさえ感じてしまう。これは、考えすぎか。髪の毛をかき乱して、周りに目もくれず、取り組むってことから離れないようにしなければ。そのときは、きっと意識がないんだろうなって思う。予測を捨て、振り返りだけを行う生き方って、どうなの?仮に、まいにち、そのように生きているヒトがいたら、なにか教えてほしい。