「表現の自由」という言葉を、振りかざしているように聞こえてくるときに、想うこと。
「表現の自由」という権利は、だから、だれもが持つもので、
例えば、表現する人と、その受け手がいるとき、
「表現の自由」はどちらも持っているので、
受け手の評価は「好き」でも「嫌い」でも自由。
自分の場合を考えてみる。
「表現の自由」は、だいぶ行使している気もする。
それは「大胆な」とか、「本音で」という意味ではなく、
だれにも理不尽な制限をされることなく表出できている、と思う。
それなりに悩んだり気を遣ったりして、表現方法を考えて、表出している。
同調圧力を感じないこともないけれど、
例えば、それがとても理不尽な態度による圧だった場合、
そんなときは私も何も言えない情けないタイプだが、そのときは心底(*う)。
「表現の自由」だけでなく、「自由」にはやっぱり「責任」が伴うのでは、と想いを巡らせることがある。
例えば、私が嫌悪の感情をおもうままに外に出したとする。自由に。
それを見たり聞いたりした人は、傷つき、私を嫌い、離れていく。
私は何をすることができるか。
怒って相手を責めるのか(逆切れ?)、
言葉が悪かったと謝るのか、
離れていった人なんて関係ないと開き直るのか、
嫌われたって気にしないのか、
冷静に話を聞いてもらうのか、
、、、
どんなかたちだとしても、自分が招いた結果の責任を取るのは私。
現状を変えようとするのか、
そのまま抱えるのか。
それも自由、ということで。