金石城 宗ダリオと小西マリア | 落人の夜話

落人の夜話

城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

 

「当機は間もなく対馬空港に到着いたします…」
と機内アナウンスが流れたとき、窓の外にはまだ一面の海原が広がっていました。

この様子ではまだ少し時間がかかるだろう…
などと思いながら窓の外を眺めつづけていると、プロペラの向こうにそそり立つ断崖に囲まれた陸地が見えてきた途端、滑走路に入ったのにはちょっと驚きました。
初めてこの便に乗った私の印象では、まるで断崖から海にむかって延びている空港に入ったような気分です。

飛行機の旅に慣れた友人の願舟氏も、この点はやや新鮮だったようです。
間もなく私と願舟氏を乗せた座席に軽い衝撃が伝わると、当機はアナウンス通り対馬やまねこ空港に着陸したのでした。
 

―所居絶島、方可四百余里、土地山険、多深林、道路如禽鹿径…(『魏志倭人伝』)

そこ(対馬国)は方四百里ほどの絶島。土地は山険しく深林多く、道は獣道の如し…
いい加減な記述も多い『魏志倭人伝』ですが、この観察はおおむね的を射ているということを、私はまず飛行機の窓越しに体感することができたのでした。

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小西妙(洗礼名:マリア)は小西行長の娘。
この女性が対馬の支配者たる宗家の青年当主・宗義智(そう よしとし)に嫁いだ事情については、当時の国内、およびアジア情勢と大いにかかわりがあります。

天正15年(1587)。九州征伐で島津氏を降した豊臣秀吉は、かねて公言していた明への進攻作戦(唐入り)を本格化させるため、ちょうど対馬一国を安堵され挨拶に来ていた宗義調義智に、朝鮮国王を上洛させるよう指示しています。
このとき豊臣政権における九州方面の取次役だったのが小西行長。宗義調が間もなく死去してしまったこともあり、必然的に義智と行長の2人が一体となってこの難役に取り組まざるをえず、関係を強化したいお互いの需要からこの婚姻は発生したのでしょう。

天正18年(1590)。マリアは対馬に渡り、新郎の居城である金石城に輿入れしました。


 
現在、国史跡に指定されている金石城は大永8年(1528)、それまでの居館であった池の館が焼失したことに伴い、宗氏のあらたな居城として清水山の麓に築かれました。

清水山には文禄・慶長の役(文禄元~2年:1592~93、慶長2~3年:1597~98)の際に築かれた清水山城があるため、その際ここは山麓の居館的な位置づけになったかもしれません。
天守は築かれず、いま見られる大手口櫓門(復元)が天守の代用になっていたそうですが、これは朝鮮通信使を迎えるにあたって威儀を整える必要を感じた三代藩主・宗義真の時代に建てられたもの。
当然ながらマリアが輿入れした頃の城にはなく、ここには素朴な高麗門でも置かれていたかも知れません。

大手門の上に天守風の櫓が乗っかっている姿はかなりレアな光景ですが、かつて朝鮮通信使を意識して建てられたこの櫓も、現在の対馬に押し寄せている韓国人観光客たちの興味をひくものではあまりないようで、幸い落ち着いて見学することができました。


 
門の内側に見えたこの石積み。石の平面を立てて積む「鏡積み」で、金石城の石垣にはこの積み方が随所にみられます。

この先には江戸期の元禄年間に作庭された「金石城跡庭園」が復元整備されているのですが、この時は時間があまりなく、パスせざるを得ませんでした。


  
城の南側に流れる金石川は天然の堀として活用されていて、川沿いに石垣が築かれています。そこから櫓門を仰いでみたのが左の写真。
この日はたまたまライトアップが行われていたため、夜の城跡も散歩してみたのが右の写真。
個人的には正面からよりも、この角度から石垣とともに眺めるのがベストショットだと思います。


 
櫓門からちょっと離れて、城下の石垣越しの写真も。
古風ながらしっかり高さを稼いでいる石垣は見事で、バックの櫓門と絡めるとなかなか絵になるようです。


  
写真上左は搦手にかかる石橋からみた枡形跡。
ここに至るまでは金石川沿いに石垣が連なっているのですが、その積み方もまた特徴的(写真上右)。
水平にした平石を重ねて積んでいるなかに、所々に大きな石を鏡のように立てて積むのは「笑い積み」にも似ていますが、“対馬流”ともいえる独特のものかも知れません。


 
<厳原港から見る清水山城跡>

秀吉から“朝鮮国王への上洛要求”という超難役を命じられた宗義智ですが、彼は建国以来、明王朝の属国である朝鮮が要求に応じるはずもないことを理解していたようで、朝鮮との貿易で生計をたてていた対馬の立場からも大いに苦しんだようです。
この前後に妻もしくは義父の影響によってでしょう、キリシタンに改宗しています。洗礼名は「ダリオ」。

彼は義父の「アウグスティヌス」こと小西行長とともに、秀吉と朝鮮の双方に対し数々の詐術を用いて交渉しますが、結局は決裂。
文禄元年(1592)、小西行長は朝鮮攻略軍の一番隊およそ1万8千の大将に任じられて渡海。
文禄・慶長の役の開戦です。

義智は対馬の兵とともに行長の配下に付けられ、戦役のあいだ中、彼らは常に寄り添うように行動を共にすることになります。
金石城と清水山城はその間、渡海する兵たちの兵站を担うもっとも重要な拠点であり続けました。

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時が経ち、慶長5年(1600)。
関ヶ原の合戦で西軍の一角を担って一敗地にまみれた小西行長は、キリシタンゆえに自害することなく京都・六条河原で斬首となりました。

この戦では、実は宗義智も西軍の側に立って活動しています。
小西家との縁のためであることは疑いないところですが、まさにこのために、戦後マリアは離縁され、義智との間に生まれた幼子とともに追放されました。
敗者に与した宗家もまた、生き残りに必死だったのでしょう。

島を出たマリア母子は、一説によると長崎の修道院に引き取られたと云われます。
そして離縁から5年後の慶長10年(1605)、寓居のうちにマリアはひっそり亡くなりました。
輿入れしたのが15歳の時だったそうですから、享年は30歳ということになります。


  
金石城から城下町を10分ほど歩いたところに厳原八幡宮神社という立派な神社があり、その一角に今宮・若宮神社と号する小さな摂社が建てられています。
由緒書をみると、元和5年(1619)に小西マリアとその子の霊魂を鎮めるために祭った、とあります。

キリシタンだったマリアの霊魂がお宮で鎮まったかどうかはわかりませんが、マリアの死去から14年もたってこのお宮が建てられることになったのは、当時の対馬の人々の側に何らかの事情があったからでしょう。
このような場合に考えらえれる可能性といえば、たとえば“怨霊”の出現です。
この場合の“怨霊”は生者の主観で十分成り立つもので、つまりはマリア母子の怨霊の仕業と思われるような出来事が、元和5年かその直前当時の対馬で起こっていたのかも知れません。
この点、対馬は「天道信仰」をはじめとする民俗文化の宝庫であることも重要な背景に挙げたいところですが、もちろんこれは確たる根拠のある話ではなく、ひとつの想像にすぎません。

ただ、このお宮を建てた人々は知らなかったのでしょう。
マンショ」と名付けられた義智とマリアの子は、元和5年当時、まだ生きていました。
それも対馬からはるか彼方、ヨーロッパの異郷に。

父に追放され、母に先立たれたマンショは、キリシタン追放令(慶長19年:1614)によって長崎からマカオに渡り、天正遣欧使節の一員だった原マルティノと出会って支援を受けています。
その後ポルトガルに渡り、さらにローマで神学を学んで司祭の資格を得た彼は、寛永9年(1632)、なんと禁教下の祖国に舞い戻り、その後12年にわたって密かな布教活動に従事しています。
そして正保元年(1644)。飛騨高山で捕えられて殉教。

このとき対馬は、彼の異母弟にあたる二代藩主・宗義成の治世。
小西マンショの名は禁教下の日本における最後の日本人司祭として記憶されることになりますが、金石城で生まれたであろう彼の死を、故郷の人々がいつ知ったかは定かではありません。



 訪れたところ
【金石城跡】長崎県対馬市厳原町今屋敷670-1
【厳原八幡宮神社】長崎県対馬市厳原町中村645