落人の夜話

落人の夜話

城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

近代以前の日本に「友情」という倫理概念はなかった…

と言ったのは、昭和の大作家・司馬遼太郎です。

 

―西欧の概念でいう友情というものは明治後の輸入倫理で、徳川期の儒教思想にもあまり見られないし、まして戦国、またはさかのぼって鎌倉期の武士の倫理のなかでは皆無といってよかった。(『関ヶ原』より)

 

さらに、

 

―同性のあいだに厚情があるとすれば、それは同性愛による義兄弟のつながりくらいのものであろう(同上)

 

とまで述べたあと、例外的な「稀有の例」として石田三成大谷吉継の関係を挙げています。

 

しかし、これはどうかなあ…

と、司馬遼太郎作品の大ファンだった当時中学だか高校生の私でさえ疑問に思いましたから、同様に感じた方も多くおられたかも知れません。

おっさんになった今は明確に否定できます。

この説は誤りです。

 

そもそも『史記』において、すでに「刎頸(ふんけい)の交わり」という逸話があります。

司馬遼太郎(本名・福田定一)がペンネームの由来とした、古代中国の歴史家・司馬遷の大著『史記』です。

 

「刎頸の交わり」は「刎頸の友」の語源ともなった古代中国の逸話で、相手のために首を刎ねられても悔いがないほど深い絆、親しき友を意味します。

すなわち春秋戦国の昔、趙の将軍・廉頗(れんぱ)は、藺相如(りんしょうじょ)が外交の功によって小身から大臣へ昇進したのを憎んでいたが、人づてに藺相如の国を思う心を聞くや改心して詫びを入れ、そこから2人は「刎頸の交わり」を結んだ…


というもので、紛れもなく「友情」の話に他なりません。

また『旧約聖書』においても、ダビデとヨナタンの間に深い友情があったことを記す逸話群があります。

 

かくも古くから洋の東西を問わず存在し、記録されていた「友情」の絆。

それが近代以前の日本にはなかった、などという説は、おそらく司馬遼太郎の思い込み、もしくは彼が大作家として活躍していた戦後の当時、旧時代を否定する評論が格好良く見られがちな世相を反映した、一種の俗説でありましょう。


近代以前の日本になかったのは「友情」という言葉だけで、友を思いやる心、友との間の深い絆はむろん自然に存在していました。

なので今回は、有名無名の武士たちによる武功譚、懐古譚をあつめた『備前老人物語』より、戦国時代にも存在した「友情」の話をご覧いただきましょう。



では、時は天正11年(1583)。舞台は琵琶湖と余呉湖を隔てる賤ヶ岳(標高421m)付近。

場面は織田信長亡きあと、羽柴秀吉柴田勝家が天下を賭けて争った賤ヶ岳の戦いへ参りましょう。


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賤ヶ岳砦跡より余呉湖を望む。

 

―中西彌五作と古田彌三ハ、ならひなき友也しか、志つか嶽の戦の時わたしあひ…(『備前老人物語』)

 

中西彌五作古田彌三は並びなき親友であった。

しかし中西彌五作は羽柴秀吉の家来、古田彌三は柴田勝家の家来となったため敵味方に分かれ、奇しくも賤ヶ岳の戦場で槍を構えて対峙した。

状況的にはおそらく合戦の終盤、突出した佐久間盛政らの軍勢に羽柴方の本隊が襲いかかった、4月21日未明のことであろうか。


薄明かりの中、喧騒極まりない戦場で、2人は互いに兜の眉庇(まびさし)に隠れた顔もわからぬまま激しく槍を交え、組み討ちとなり、ついに中西が古田を組み伏せた。

腰刀を抜いた中西が、今しも首を取ろうとよく見れば、なんと相手は古田であった。

 

「お前は彌三ではないか…!」

 

驚いたのは古田も同様であった。下から「そう言うお前は彌五作か」と応えた声には、つい再会を懐かしむ響きがにじんだ。

が、戦場である。すぐに覚悟を決めて声色を変え、

「この期に及んでそのような名乗りは無用。早う首を取れ」

と言った。

 

「……何を言っとるのだ」

中西は腰刀を納め、下になった古田の体を引き起こした。そして鎧の汚れを払ってやりながら、「不思議なこともあるもんだな」と語りかけた。

 

―不思議の仕合かなとて打笑て立わかれしと也…(同上)

 

「達者でな」

「お前も」

二人は笑い合い、そのまま立ち別れて走り去った。


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逸話は以上です。

見ての通り『史記』や『旧約聖書』ほどスケールが大きくもなく、芝居がかった演出もありませんし、登場する2人は無名の武士にすぎません。

が、この短い逸話から、2人の性格やここに至るまでの交流、立場を超えた深い友情を察することは容易でありましょう。


なお、このとき命拾いした古田彌三は、後に大和大納言(豊臣秀長)に仕え、さらに吉田惣左衛門と改名して伊勢松坂藩主・古田兵部少輔重勝)の家老となりました。

一方、中西彌五作は豊臣秀吉直属の黄母衣衆でしたが、賤ヶ岳の戦い以降には黄母衣衆の名簿からその名が見えなくなって消息不明。

あるいは古田と立ち別れたあと、他の敵と渡り合うなかで、武運つたなく落命したのかもしれません。


さらに想像するなら、このお話は後年、年老いた吉田惣左衛門が古い友人を偲びつつ人に語った夜話が、人づてに採録されて今に伝わったのかも知れません。


 

賤ヶ岳山頂にて。須川常美氏作「武者の像」。


よく間違われるらしいのですが、こちらは柴田勝家の像ではなく、合戦が終わり疲れ切って座り込む羽柴方の武者の像です。



賤ヶ岳の戦いは、天下を取りかけた織田家中を二つに割った大戦。後に「豊臣」の姓を賜り天下人となる羽柴秀吉の人生においても、大きなターニングポイントでした。

その秀吉に勝利をもたらしたのは、柴田勝家の寄騎でありながら切所で寝返り、柴田方総崩れの因をつくった前田利家でした。


利家は柴田勝家を「親父殿」と呼んで慕う一方、秀吉との「友情」の狭間に悩んだ挙句⋯

などと、今もその寝返りの理由が語られたりもするのですが、さて。

私などはそれよりも、無名の中西彌五作と古田彌三が示したような、政治的配慮も打算もない刹那のエピソードにこそ、男くさくも爽快な本来の「友情」を感じてスカッとした気持ちになるのですが、皆さんはいかがお感じになりましょうか。




クローバー訪れたところ

【賤ヶ岳古戦場】滋賀県長浜市木之本町大音