落人の夜話

落人の夜話

城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

当ブログは城跡紀行家と戦国史愛好家を称するわたくしが投稿者ですから、年のはじめに「戦国時代の始まり」についてなど…

 

と、迂闊に書き始めたものの、そういえば「戦国時代」って定義からしてアバウトなんですよね。

一般的には、中央権力である室町幕府の支配が崩れ、「地域権力が自立的に領国支配を形成していく過程の時代」(網野善彦監修『日本中世の歴史』)といった説明がなされるのですが、その起点をどこに置くかといえば学界でもいまだに議論百出です。

 

よく言われるのは応仁の乱(応仁元年:1467)とか明応の政変(明応2年:1493)あたりですが、じゃあそれ以前の日本は幕府の支配が行き届いて平和だったのかというと、全然そんなことはありません。

関東で28年間も続いた享徳の乱(享徳3年:1454)も、京都で将軍が暗殺された嘉吉の乱(嘉吉元年:1441)も、幕府機関が東西に割れて戦った永享の乱(永享10年:1438)も、ぜんぶ応仁の乱より前の戦乱で、幕府のコントロールが効いていない状況を露呈したもの。

有り体にいえば、室町幕府はほぼ全期間にわたって戦国みたいな時代だった訳です。

 

ただ、3代・義満は独特のカリスマ性によって朝廷や有力大名に睨みを効かせ、続く4代・義持も有力大名らの調整役として存在感は維持していた。

このあたりが室町幕府のささやかな最盛期ではあったでしょうが、しかしこの時でさえ、地域権力に対する幕府の支配はすでに崩れていました。

 

今回はその事例として大塔合戦をみてみましょう。

時は応仁の乱から遡ること60年以上の応永7年(1400)、将軍は3代・足利義満。

第一幕は信濃国(長野県)の善光寺です。

 

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善光寺にて

 

応永7年(1400)8月。

将軍・足利義満から信濃国の守護に任命された小笠原長秀は、一族郎党を率いて信濃に入国。守護所に近い善光寺に入りました。

 

長秀一行の善光寺入りは「上方出御之粧」(『大塔物語』)と記され、まるで京の馬揃えのようなきらびやかな行列だったと云います。

また、善光寺には守護入国を迎えるべく、信濃各地から国衆が参集していました。が、彼らと会見した長秀の態度はきわめて尊大でした。

 

不結紐、不帯扇、増而不及一献之沙汰、偏公家之上臈、児、傾城之振舞也…(同上)

 

長秀は着物の前の紐も結ばず、扇も持たず、ましてや一献の沙汰もなく、まるで女官か稚児か遊女のような態度で国衆に対面した…

 

ちなみに「一献の沙汰」とはいわゆる「盃を交わす」というやつで、当時こうした場面における重要な習慣であり公的行為でした。現代の例えでいうなら、公式会見の場にジャージ姿であらわれ、まともな挨拶もせず、ポケットに手を突っ込んだまま顎でもしゃくっていた感じでしょうか。

 

長秀は強い特権意識を持って国衆を見下していたのか、はじめにガツンと威厳を見せておこうとでも思ったか、或いはその両方だったか。

当然、国衆の中には反発が高まりましたが、当初は穏便に済ませようする意見が主流だったようです。が、長秀が国衆の意向など無視し、彼らの所領に兵を入れて徴税し始めると事態は悪化。

同年9月3日、国衆らは「大文字一揆」と呼ばれる一揆を形成し、反守護の兵を挙げました。

 

 

横田城跡にて

 

9月10日。

急報を受けた長秀は、これを鎮圧するため善光寺を出陣。犀川を越えて南下し、川中島の横田城に入城しました。

が、そのもとへ集まったのはわずか800人ほど。小笠原一族内からも離反者が出る始末で、やはり長秀は人望に欠ける人だったのかも知れません。

 

対する一揆方には村上氏、千田氏、仁科氏、海野氏、高梨氏等々、のちに信濃戦国史を彩る国衆のほとんどが参集して総勢4000人以上。さらに数を増しつつ横田城を包囲するように布陣し、鯨波の声をあげました。

 

まるで四面楚歌。

城壁から外を望んで怯んだ長秀は、配下の守護代・赤沢秀国が領する塩崎城(長野市篠ノ井塩崎)への撤退を企て、9月24日未明、夜が明けぬうちに移動を開始しました。

が、すぐ一揆勢に察知されて追撃され、四宮河原で戦端が開かれました。大塔合戦です。

 

小笠原勢の采配を任されたのは、長秀の叔父にあたる坂西(ばんざい)長国。

数に任せて次々に襲いかかってくる一揆勢を三度にわたって退けたものの、難しい撤退戦の中、降り注ぐ矢の雨を受け続けて次第に兵数を減らし、やがて総攻撃を受けるに至って崩れ立ちました。

 

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横田城跡の2kmほど南西、岡田川という小さな川沿いに、大当という集落があります。

集落のはずれが微高地になっていて、そこに四角い2階建ての公民館が建っていました。

 

 

橋を渡って川向いから。

あー、まあこうしてみると、確かに周囲よりちょっと高くなっているような気がしますね。ちょっとだけですけどね。

 

ここが大塔の古館跡と伝わる場所なんですが、周りを歩いても、堀や土塁のような遺構らしきものは見当たりません。

戦前までは堀の跡などが残っていたといいますが、その後の土地改良で消滅したのかも知れません。

 

 

公民館の玄関脇に案内板がありました。

どれ、例によって(周囲に人がいないことを確認し)声に出して読んでみましょう。

 

「善光寺に入ってからの長秀は、将軍の威光を笠に着て尊大で横暴であった。この振舞に反発して、地元の有力豪族であった村上氏や海野氏等が国人一揆を称し国人に呼びかけて長秀を追放しようと四宮河原で戦った…」

 

ふむふむ、それで?

「長秀は深手を負い塩崎城に逃れた。逃げ遅れた坂西長国ら三百騎は大塔の古要害に逃げ込んだ…」

 

 

応永7年(1400)9月24日、夕刻。

信濃国守護・小笠原長秀麾下の軍勢およそ800は、5倍もの兵力を有する国衆連合、いわゆる「大文字一揆」との合戦(大塔合戦)に敗れて多くの戦死者を出し、長秀自身も負傷しながら、なんとか味方の拠点である塩崎城に逃げ込みました。

しかし、その盾となって戦った坂西(ばんざい)長国以下およそ300人は、一揆勢に退路をふさがれて逃げ切れず、付近にあった大塔の古館に立て籠もりました。

 

ここは当時の記録でも「古要害」とあるため、すでに廃城だったと見ていいでしょう。おそらく南北朝期の城館跡だったと思われます。

逃げ遅れた守護勢は廃墟のような古要害に入ると、崩れた塁上に盾を並べて鹿垣を結い、急ごしらえのバリケードを築いて救援を待つ構え。

一揆勢は大軍でこれを取り囲み、井楼を組んで矢を射込み、昼夜を問わず言葉戦を浴びせて攻め立てたそうですから、さながらライオンの群れが手負いの水牛を囲む様相だったでしょう。

 

守護勢の中には武士の家族である女性や子供、それに「雑人」と呼ばれる農民出身者も多くいたようです。

彼らは水も食糧もないまま孤立無援に陥り、救援を期待した塩崎城にもその余力はありませんでした。

 

旧暦9月24日といえば、現代の暦なら11月の中頃にあたります。

「小氷河期」といわれた当時、霜が降りる朝夜の寒さと飢えは身を貫いたでしょう。彼らは地にうずくまって身を寄せ合い、夜は女子供のすすり泣く声が漏れ聞こえたといいます。

また、牛馬を殺してその肉を喰い、流れる血を含んで渇きを凌ぐ有り様は、さながら「餓鬼畜生道」だったと伝わります。

 

10月16日。籠城開始から20日以上が経過した古要害内は惨状を呈し、耐えかねた坂西長国は、「自害もできぬほど弱る前に…」と最後の演説をおこないました。

翌10月17日の夜、彼らは一丸となって打って出て、全員が討死したと云いますが、弱りきった彼らに刀を振るだけの力が残っていたかは疑問です。

 

戦後、このことを伝え聞いた善光寺の僧や住民、討死した武士と縁のあった遊女らが駆けつけ、戦場に散乱した遺骸をあつめて弔ったそうです。

『大塔物語』はそうした人々が伝えた物語の原本が、文正元年(1466)に書き写されて今に残っています。

 

なお、長秀が逃げこんだ塩崎城はその後、小笠原一門の大井光矩が仲介して開城。

長秀は京都へ逃げ帰り、報告を聞いた3代将軍・足利義満によって守護職を罷免されました。

これ以後、信濃国は大小の国衆による実効支配が続き、やがて武田信玄による侵攻を迎えることになります。

 

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さて。

ここで戦国時代の定義を思い出してみます。

ざっくりいえば戦国時代とは、

・中央権力である室町幕府の支配が崩れ

・地域権力が自立的に領国支配を形成

する時代でありました。

 

であれば、室町幕府が任命した守護が国衆連合という地域権力に追い出された大塔合戦は、まさに「下克上」というほかなく、自立的な領国経営を追認せざるを得なかった幕府の支配はすでに崩れていた訳です。

これを戦国時代と言わずして何と言いましょうや。

 

そうすると、戦国時代の始まりは応仁の乱か、はたまた明応の政変か…

などという議論に大した意味はなく、室町時代はほぼ全期間にわたって戦国時代と思うほうが実態に近く感じるのですが、皆さんはいかが思われるでしょうか。

 

 

 

クローバー訪れたところ

【善光寺】長野県長野市大字長野元善町491-イ

【横田城跡】長野県長野市篠ノ井会186

【大塔の古館跡】長野県長野市篠ノ井二ツ柳1559-1