長澤七右衛門という武士の名が伝わるのは、慶長19年(1614)、牢人だった彼が家族を連れて大坂へ入城したことに始まります。
彼のそれまでの経歴は不明ですが、このとき大坂へ入城した多くの牢人衆と同様、関ヶ原の合戦(慶長5年:1600)で没落した大名の家中だったか、その前後の騒動で禄を失った侍だったでしょうか。
いずれにせよ、妻子を抱えて浪々のすえ行き場を失っていた、いわゆる「食い詰め牢人」の類とみて間違いはなさそうで、当時、好条件で牢人を集めていた大坂城は、彼らのような人々にとって願ってもない就労先でありました。
とはいえ、彼がひとかどの武士であったことは、入城後に後藤又兵衛(基次)にスカウトされたことでもわかります。
大坂城の「五人衆」と呼ばれた牢人大将の一人、後藤又兵衛は、自らの部隊を編成するにあたり、数ある牢人たちの中から補佐役の幹部を抜擢しています。それが山田外記、片山助兵衛、そして長澤七右衛門の3人でした。
彼らもまた後藤又兵衛と同じく、運や巡り合わせといった能力以外の理由によって、牢人の身となっていたのかも知れません。
長澤七右衛門には2人の息子がいました。
兄を十太夫、弟を九郎兵衛といい、いずれも後藤又兵衛配下に属していましたが、兄弟ともまだ少年だったと推測されます。
それでも兄のほうは戦場に出ていますから15歳は超えていたかも知れませんが、弟のほうはまだ10歳前後だったようで、「近習」として又兵衛に近侍していました。
この九郎兵衛が大坂の陣を生き延びて往時を回顧し、『長澤聞書』という貴重な記録を今に残しました。
その中で描かれるのは親兄弟の活躍だけでなく、身近に接した後藤又兵衛らの人物像、さらに当時を生きた人ならではの生々しい伝聞や戦場描写が含まれています。
ということで。
前回は【戦国のガバナンス問題】と題して、大坂冬の陣から束の間の講和が破れる前までをご覧頂きました。
個人的な好みながら、戦国史の中でも大坂の陣は特に興味深くて考察のネタにしがちなんですが、今回は少し趣を変えて『長澤聞書』に基づいたお話を、せっかくなので主人公(長澤九郎兵衛)の回想っぽく綴ってみましょうか。
それでは、時は慶長19年(1614)の暮れ。
舞台はむろん、大坂城です。
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<大阪城天守閣>
其歳の春より下々の言葉に門屋木戸屋と云ふ事を申ならはし、又小歌に十五にならは前に垣をめされよという歌を専らうたひ、其後同年五月…
『長澤聞書』より
思えば慶長19年は多難な年であった。
あの頃は「♪十五にならば前に垣をめされよ…」なんて小唄が流行っていたっけ。
その年の5月には大雨で摂津の大堤が決壊し大きな被害があったそうだし、6月には「おいせ踊り」とかいう踊りが大流行し、各地から群衆が大坂へ押し寄せ踊り狂ったという。
8月になると牢人が集まりだし、大坂の陣が始まるのでないかと世間が噂するようになった。
9月には天を照らすような「光物」が東から西の空へ飛び、10月には大地震があった。
そんな年、父は家族を連れて大坂城へ入城した。
<今福・蒲生の戦いの碑にて>
わが父は長澤七右衛門と言う牢人で、入城後は後藤又兵衛様の配下となった。
今福・鴫野の合戦(慶長19年11月)の折、私はまだ子供だったので、又兵衛様ははじめ戦場へは連れて行かないと言われた。しかし父が懇願してなんとか親兄弟揃って従軍させてもらい、私は又兵衛様の側近くに控えて合戦の模様を見守った。
敵は徳川方の出羽秋田20万石、佐竹(義宣)勢であった。
<大阪城天守閣博物館にて>
我らは又兵衛様の下知に従い、木村長門守(重成)殿や大野修理(治長)殿の手勢と力を合わせて懸命に戦った。
木村勢は佐竹の家老・渋江内膳(政光)を討ち取る大手柄をあげた。後藤勢も100以上の首を取り、わが父も兄も負傷しながら一歩も退かなかったのは皆の知るところである。
帰城後には功名次第で褒美を賜わり、誠に晴れがましいことであった。
<大阪城南外堀にて>
またある時、夜の五ツ時分(午前3~5時ごろ)、城を囲む天下の大軍から突如として鬨の声が上がり、一斉に鐘や太鼓が打ち響いて大炮まで撃ち込まれた。
「すわ、敵の総攻撃か!」
突然のことに城中大騒ぎとなったが、又兵衛様は違った。平服のまま使い番を呼び、「この攻めは味方の心を折るための偽りの攻めである。敵が塀を乗り越えてくることはないから、騒ぐ必要はない」と触れて回らせた。
実際その通りであったが、攻めが止みそうな頃合いに今度は「鉄炮を二回ほど一斉射撃させよ。これは味方の士気が衰えていないことを敵に知らせるためである」と言われ、見事な采配であった。
しかし12月になると、城内で噂が飛び交いはじめた。
御城玉薬兵糧米萬切候により、秀頼御壹人御腹めされ候て、諸勢御助被成候筈に取り沙汰申候…
(同上)
「城内の兵糧弾薬が底をついたらしい…」
「秀頼公が切腹し、籠城の衆をお助けになるそうだ」
などと周囲は話していた。
が、お城の堀を埋める条件で講和となり、年の暮れに戦(冬の陣)は終わった。
父がこのまま豊臣家に仕官できるなら、家族ともどもようやく浪々の境遇を脱し、もう飢えることはない。
そう思っていた。
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と、多少私なりの脚本も加えて回想風にしましたけども、当事者に聞く情景はやっぱり小説や大河ドラマなんかとは違っていて、冬の陣での大坂方は局地戦で善戦したものの、全体的には追い詰められていた状況でした。
とすれば、「堀を埋める」という講和条件は比較的寛大なものとも感じますが、しかし近年の研究成果によれば“隠れた”条件があったこともわかっています。
それが前記事でも触れた牢人衆の解雇解散、すなわち「召し放ち」だった訳ですが、『長澤聞書』をみるに、彼ら下々の牢人たちは何も知らされていなかった可能性が高そうです。
こうした現象は外交の過程ではままあることながら、牢人の力を借りなければ戦えなかった豊臣家は、実力ある牢人衆を統率する力もなく、そして用済みになった彼らを召し放つという、大変な苦痛を伴う判断もできなかった。そういう様々な種類の弱さによって滅びの道を辿るというのが、最も現実に即したストーリーと考えます。
さて。
話は『長澤聞書』の世界へと戻りまして、主人公(長澤九郎兵衛)が神の如く崇めた後藤又兵衛は、夏の陣においても彼ら牢人衆を率いて劇的な最期を遂げることになります。
その辺りの様子も九郎兵衛は見聞している訳ですが、長くなりましたので続きは次回とさせて頂きましょう。
【『長澤聞書』の世界②】につづく
訪れたところ
【大坂(大阪)城跡】大阪府大阪市中央区大坂城1‐1
【今福・蒲生の戦い跡】大阪市城東区今福西1丁目14-10