落人の夜話

落人の夜話

城跡紀行家(自称)落人の
お城めぐりとご当地めぐり

 

ドーミーイン津に泊まった夜、名物の夜鳴きそばを食べたあとは天然温泉大浴場へと足を運びます。

大浴場にはサウナや水風呂、露天風呂まであってかなり設備が充実していて、肝心の温泉(弱アルカリ性単純温泉)もぬるめで夏にちょうどよいのです。

 

浴場内を静かに流れるBGMがまた秀逸で、湯船で体を伸ばして天井を見上げていると、危うく寝落ちそうになるほどの気持ちよさでありました。

 

これが「整う」ってやつか…

と思ってたら、BGMはサウナブームの火付け役となったテレ東ドラマ『サ道』の音楽担当、「とくさしけんご」氏のオリジナルでした。

 

 

気分整ったところで風呂上がりの無料アイスを1本手に取って、それでは安濃津城の後編と参りましょう。

 

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安濃津城の天守台を見学したあと、埋門から本丸南側へ出てみると、本丸を囲む石垣を外側から間近に見ることができます。

このあたりは江戸期以前の古い石垣で、私がいま立っているあたりは広い内堀でした。

 

「この石垣の下にもね、昔はずうっと犬走りが走ってたそうですよ」

と解説してくれたのは、天守台のあたりでひょっこり声をかけてこられたボランティアガイドの方でした。

こうしたガイドさんにはアクが強い人も多いんですが、この方は上手なガイドさんで、程よい距離感で一緒に歩いていろいろポイントを教えてくれました。

 

 

よく見ると石垣の上のほうに、黒く煤がついたような箇所があります。

 

「あの上のほう黒くなってるのは、空襲か何かで焼けた痕でしょうか?」

とガイドさんに聞いてみたら、

「ああ、あれは昔この城が攻められた時に櫓から何から燃えて、石垣にもその焼け跡が…」

と、私にとってはちょっと驚きの回答でした。

 

「あの…それって関ヶ原の時の?」

「あ、そうです。関ヶ原の合戦の前にここの殿様が東軍に味方したもんで、西軍3万だかの大軍に攻められましてね。城も町も滅茶苦茶に焼かれたみたいで…」

それは今から420年以上も昔の安濃津城攻防戦の痕跡でありました。

 

 

慶長5年(1600)6月18日。

豊臣家五大老の筆頭・徳川家康は諸将を率い、会津の太守・上杉景勝を征伐すべく伏見を出発。

その留守を突いて大坂城に残った三奉行(長束正家増田長盛前田玄以)が「内府違ひの条々」を発して家康を弾劾すると、それを合図に毛利輝元宇喜多秀家小西行長島津義弘大谷吉継石田三成らが集結。後世にいう「西軍」の爆誕です。

 

ときに安濃津5万石の領主は富田信高でしたが、彼は伊勢上野(1万石)の分部光嘉、松坂(3万5千石)の古田重勝ら伊勢の諸将とともに会津征伐に従軍していた流れで「東軍」となり、急ぎ帰国しています。

が、伊勢国内の情勢は混沌としていました。

 

当時、伊勢国は小大名に分割統治されているような状態で、すでに桑名(2万5千石)の氏家行広、新宮(2万7千石)の堀内氏善、鳥羽(3万5千石)の九鬼嘉隆が「西軍」加担を表明。

まずは畿内の平定を目指す「西軍」が伊勢路の「東軍」を放置するはずもなく、早い段階で富田らが討伐を受けるのは必至の情勢でありました。

 

案の定、富田らが帰国して間もない8月18日、毛利秀元吉川広家安国寺恵瓊長束正家鍋島勝茂ら「西軍」諸将率いる軍勢およそ3万が「関地蔵」(関市)に到達。もう目と鼻の先に来ていた訳です。

単独では抗しきれないとみた分部光嘉は安濃津城に合流し、松坂の古田重勝からも加勢が送られましたが、城下の領民を収容しても城に籠る人数は2千に満たなかったと云います。

 

8月22日、ついに「西軍」鍋島勢が安濃津城下に侵入。

『勝茂公譜考補』によると、鍋島勢は城へ加勢に入ろうとする一団(松坂の援軍か?)に付け入って二ノ丸を占領したようで、24日には本丸を残すのみとなった城へ総攻撃が開始されました。

 

激戦のなか、分部光嘉は毛利家中の宍戸元次との一騎打ちで双方重傷を負って後退。

富田も出撃したところを敵に囲まれてあわやという時、一人の若武者が救援に駆けつけたと云います。

 

―城中ヨリ容顔美麗ナル若武者、緋縅ノ鎧ニ中二段黒皮ニテ威タルニ、半月打タル冑ノ緒ヲシメ、片鎌ノ手鑓押取、富田ガ前ニ進出テ…(『石田軍記』)

 

颯爽とあらわれた若武者は、緋縅の鎧に半月の兜という美々しいいでたち。よく見ればなんとその正体は富田の妻であった…

というお話は、安濃津城攻防戦を語る際に必ずといっていいほど出てくる名ネタなんですが、なにぶん典拠が軍記の中でもとりわけ信頼性のない『石田軍記』なので、ここでは話半分以下にしておくとしまして。

 

安濃津城下は兵火に焼き尽くされ、裸城となった安濃津城も砲撃によって炎上。このとき五層の天守も焼失したのだそうです。

8月25日、「西軍」が和議を持ちかけたのを潮に富田は降伏しました。

 

 

こちらは南多聞櫓台と旧隅部の石垣。

左右で積んだ時期が違うのがよくわかる部分です。

左側は織田信包時代のもので城内最古の野面積み。

右側は藤堂高虎が城を拡張した際に積み増したものとなります。

 

 

この城にはまだ積み足しがよくわかる石垣があって、それが西の丸から本丸にかけてのこの部分。

真ん中で積み方が大きく違っているが分かります?

 

右側はもともと内堀で本来石垣がなかった部分。

明治時代以降、西の丸を公園化するにあたって拡張された部分で、こちら側は比較的新しい「落とし積み」ですね。

 

 

「ここから先はちょっと残念な部分というか…」

と、ガイドさんがちょっと歯切れが悪くなったのが、この月見櫓台あたりの石垣。

 

このあたりは昭和19年(1944)の東南海地震で崩落。戦後に積み直されたものの、雑に積んだ上にモルタルを詰め込んで補修したため旧観を留めていません。

まあ、色々大変な時代でしたから余裕もなかったんでしょう。

 

 

おっと転用石発見。こちらは東多聞櫓台にて。

この城は、石垣を丹念に見て回ることで幾多の時代を感じることができそうです。

 

 

慶長5年(1600)9月15日。

関ヶ原の合戦で「東軍」が勝利すると、富田信高は呼び戻されて旧領安堵のうえ2万石を加増。さらに慶長13年(1608)には伊予宇和島12万石に大幅アップとなって移封されました。

富田はその後に数奇な運命をたどるのですが、それは措くとして。

 

かわって安濃津へ入城したのが藤堂高虎です。

当初は伊勢8郡および伊賀一国で22万石でしたが、のち32万3千石に加増されました。

どうもこの頃から安濃津は単に「津」と呼ばれるようになったもようですが、高虎は大大名となった津藩藤堂家の藩庁として城の大改修に着手しました。

藤堂家はその後も移封することなく11代続き、明治維新に至っています。

 

 

藤堂高虎と愛馬「加古黒」の像。

ガイドさんいわく等身大だそうで、身長190cmほどもあったという高虎の体格を再現したものとか。

城跡公園内にて。

 

 

模擬三重櫓の前に帰ってきました。

正面に建つでかいビルは百五銀行の本店です。

百五銀行は明治11年(1878)設立の地方銀行で、津藩の家老であった藤堂高泰らによって創始された歴史があります。

 

「再来年(2026年)の大河ドラマが『豊臣兄弟!』になりましたでしょう?」

別れ際、ガイドさんにお礼を言うとそんな話を切り出されました。

 

「わしら地元の者はね、そのときは高虎公が重要な役で出てくるに違いないと言い合っとるんです」

「ほう」

「そうなると津城もきっとテレビ映りが増えるから、もっとちゃんと整備しやんといかんと話しとるんですが、先立つものがありません」

あの百五銀行が先祖のために予算を出してくれれば、こんなにいい話はないんですが。

 

方言交じりにオチをつけたガイドさんと一緒に笑って、今回の安濃津城めぐりは終了したのでした。

 

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ということで、こちらは翌朝のドーミーインの朝食。

ドーミーインの朝食はバイキング形式で、地元の名物が提供されるのが高ポイント。

こちらドーミーイン津では伊勢うどん鰻のひつまむし、そして松坂牛の牛なべというご当地グルメ豪華3点がなんと食べ放題です。

 

 

こちら松坂牛の牛なべをアップ。

あっさり目のすき焼き風で、肉以外の具材も糸こんにゃくや野菜、玉子焼きなど実に丁寧です。

 

ああ、しかし今の私はおっさんとなり、若い頃のような怖いもの知らずの胃ではなくなってしまいました。

こんなご馳走を前にお代わりもできず、今持ってきたこの量を愛おしむように喫食し、予想通りの旨さにまさに舌鼓を打つのでありました。

 

 

 

クローバー訪れたところ

【安濃津城(津城)跡】三重県津市丸の内

【ドーミーイン津】三重県津市羽所町374