8月16日(火)佐川町~四万十川の「川辺のコテージ」宮崎さんの所へ~
午前中、佐川の街並を散策~
佐川町と司牡丹の由来
南国土佐、高知市を離れて西へ26km、山紫水明の佐川町は銘酒「司牡丹」醸造の地として名があります。今から約400年の昔、関ヶ原の合戦直後の慶長8年(1603年)のことです。関ヶ原の勲功により、徳川家康から土佐24万石を賜った山内一豊に伴い、土佐に入国した山内家の首席家老、深尾和泉守重良は佐川1万石を預かることになります。その時、深尾氏に従ってきた商家の中には、酒造りを業とする「御酒屋」の名が見られました。深尾家出入りの御用商人で「名字・帯刀」を許された格式ある酒屋です。この酒屋が、司牡丹酒造の前身であります。以来、佐川の地に伝統正しい酒造りが受け継がれ、大正7年(1918年)、佐川の酒造家が結集して近代企業として株式会社を設立。そして佐川出身の維新の志士、明治新政府の宮内大臣も務めた田中光顕伯爵(坂本龍馬、中岡慎太郎亡き後の陸援隊長)は、この佐川の酒を愛飲し、「天下の芳醇なり、今後は酒の王たるべし」と激励の一筆を寄せ「司牡丹」命名。「牡丹は百花の王、さらに牡丹の中の司たるべし」という意味であります。
当時の建物で現在も残存しているのは東町の長大な倉庫(貯蔵庫)で、酒屋の蔵では日本でも有数の長さを誇る(長さ85メートル、高さ8.5メートル)。建築は天保9年(1838)で黒金屋本家と出店の蔵であった。司牡丹本社や本社横の蔵は黒金屋出店の建物であった。焼酎蔵と「ほてい」の建物は生金屋の蔵であった。
司牡丹酒造の設立 大正7年、同族間で酒販売の競争競合の不利を避けるため、企業合併の話が起こり、誕生した。 即、黒金屋本家(笹の露、玉椿)、黒金屋出店(日之本、若柳)、生金屋(野菊)の3軒の酒屋が合併して佐川醸造株式会社を創業したのがはじまりである。酒の銘柄は千歳鯛とした。しかし、この銘柄は他に同じものがあることが判明し、司牡丹に改名した。そして、その時点で司牡丹酒造株式会社に社名を変更した。
酒ギャラリーほてい(佐川町指定文化財)と焼酎蔵
嘉永年間佐川市街図によれば。この地はタカハシ屋喜助、明治初期図では三橋慎助の名が見える。タカハシ屋は酒造業であったので以前から酒蔵であった可能性が高い。その後、生金屋(アラガネヤ)(浜口家)がこの建物を購入して野菊銘柄の酒を造っていた。大正7年の企業合併により、司牡丹酒造株式会社の蔵となり現在に至っている。なお、ほていは現在、司牡丹の資料展示や酒及び諸雑貨の販売を行っており、司牡丹の試飲も可能である(月曜は休日)
重要文化財
竹村家は、佐川屈指の商家で、江戸後期に苗字帯刀と酒造を許されて酒造業を手がけるとともに、幕府からの巡見使には宿所を提供していた。主屋は、東側の店舗部と西側の座敷部からなり、店舗部は安永9年(1780)頃、座敷部は天保9年(1838)の建築とみられる。店舗部は、広い吹き抜けの土間と、オモテ、チョウバなどの部屋をもつ町家形式で、座敷部は、座敷のほか茶室なども備えた接客空間をもち、当地に特徴的な意匠の座敷飾りや貼付壁を採用している。
竹村家住宅は、幕府巡見使の宿所とされ、武家住宅に準ずる上質な座敷を備えるなど、土佐地方における有力商家の住宅として重要である。
・青山文庫の歩み
明治41年(1910)佐川郵便局長、川田豊太郎により私立図書館「川田文庫」が設立されたのを嚆矢とする。 大正14年、この川田文庫の経営理念や努力に感激した田中光顕は基金7500円と自己の蔵書1万数千冊を寄贈する。 これにより、財団法人青山会を立ち上げ、名称も「青山文庫」と改名する。 その後、田中光顕より逐次、皇室下賜品、維新志士の遺墨、書籍が寄贈される。
○久屋敷 (スタジオ可葉)
かつては (マルキュウ)の呼称で通った竹村呉服店の建物である。幕末-明治初期の建築物と考えられる。 この竹村家は隣接の竹村本家から安永6年(1777)分家されたもので、代々安右衛門を襲名した。当初、質屋、のち呉服及び雑貨商を営む。3代安七の頃には土佐西部で唯一の絹物商として繁栄した。現在は書家の北古味可葉氏がスタジオとして使用としている。
佐川城趾に向かう道、右の家は~
◆浜口家
佐川の古地図、寛永12年図の「古城之追手口」と称された青源寺への参道に入る四つ辻の向かって右手に黒い壁に囲まれた浜口家がある。浜口家の出自は天正の頃、長曽我部信親の家臣であり、江戸期に入り香南市手結より高知を経て須崎に移り酒造業を営み、江戸中期に佐川に来て酒造業(生金屋)を営んだ家系である。
清源寺 藩政時代、この佐川を治めていた深尾家の菩提寺で、観音堂には後水尾法皇を祭っています。
深尾家墓碑は通行止め
城趾の説明、深尾家はわずか15年の領主であった?
佐川城趾から見た街
ギャラリーに行くとご飯の用意が~
センスの良い、身体に良い食材が~ 美味しく頂きました、豆腐もジャコ・ミョウガ・大根の葉・シソ等を混ぜて、ご飯にのせて先ず食し、写っていないが地卵を卵かけご飯で~小玉だが黄身は濃厚で美味かった!
皆さんお世話になりました~
次回会える日を楽しみにしています、と四万十市(旧中村市)に向かう~ 約2時間、久し振りの
「佐田の沈下橋」です。
1年振りに見る「佐田の沈下橋」今年は水量が少ない?
「宮崎 聖」一家、奥さんの「直美」・長女「柚」ちゃん
昨年は柚ちゃんが生まれて奥さんが高知の実家に帰っており、今年が初対面~
今夜はここで独り寝、宮崎一家の住居を空けてくれたのだぁ~
裏は四万十川、風呂場から川が見える~
最初に会ったとき、誰だか解らず手を振ったらニコニコ手を振り返してくれた子だった、こんなに大きくなったのだ(1歳2ヶ月)
聖さんは、カヌーのインストラクターも! これから川に降りてカヌーの手ほどきだぁ~
カヌー教室です、今日は友人の家族がぁ~
あれっ! こんな時間に稲刈りのコンバインダーが?
聖さんの祖母(80歳)でしたぁ~
家族で一番元気、稲刈りから魚獲りまでやって自給自足の生活ができるというスーパーバァちゃん
18:00夕食を予約してくれていたので4人で出掛ける、今夜は旧中村市の召膳「さんげつ」最近、宮崎夫妻が気に入っている店と言う~
さんげつ・大将の「上原 仁」さん、こだわりの料理人で関西の有名な料理屋で修行の身とか・・・
先付け~
地元で珍重されているメジカの新子(ちょっと表現がおかしい?かもカツオの小さいのがメジカでそのまた
小さいの、すなわち生まれたばかりをシンコと呼ぶらしいが?)いずれにしても今の時期しか獲れないので貴重なのか? 味はどうってことは無いように思ったが~
アユの塩焼き、俺は川魚があまり好きではなくアユも開きの半夜干しはよく食べるが!
大きなアユで頭をはずしてガブッと喰ったが、炭火でじっくり焼いた四万十川のアユは身がやや半焼ぐらいであったがそれが美味さの秘訣なのか? 今まで喰った中で一番だぁ~
高知で「リュウキュウ」というハスイモの酢のもの
ウナギの白焼き、写真を撮るのを忘れまた先に喰らった~ 天然物は高すぎるので養殖を、それでも四万十川のシラスは時間をかけて養殖するので通常より数倍高いとか?
俺は白焼きはあまり食べないが酒のツマミには良いね、ご飯はタレで~
養殖「アオサ」の天ぷら、ノリと同じように網の棚で養殖をするという、アオノリは四万十川の天然もの~
ちょっと、油が前に出過ぎの感あり~
これは美味かったフックラでアユの香りと歯ごたえ適度に良し仁井多米とのコラボが美しい、鯛飯等も同じように炊くが、釜にこだわって~(万古焼きのようだが?)
こんな感じの店内でした~ 今日も満腹です、お休みなさい~
午前中、佐川の街並を散策~
佐川町と司牡丹の由来
南国土佐、高知市を離れて西へ26km、山紫水明の佐川町は銘酒「司牡丹」醸造の地として名があります。今から約400年の昔、関ヶ原の合戦直後の慶長8年(1603年)のことです。関ヶ原の勲功により、徳川家康から土佐24万石を賜った山内一豊に伴い、土佐に入国した山内家の首席家老、深尾和泉守重良は佐川1万石を預かることになります。その時、深尾氏に従ってきた商家の中には、酒造りを業とする「御酒屋」の名が見られました。深尾家出入りの御用商人で「名字・帯刀」を許された格式ある酒屋です。この酒屋が、司牡丹酒造の前身であります。以来、佐川の地に伝統正しい酒造りが受け継がれ、大正7年(1918年)、佐川の酒造家が結集して近代企業として株式会社を設立。そして佐川出身の維新の志士、明治新政府の宮内大臣も務めた田中光顕伯爵(坂本龍馬、中岡慎太郎亡き後の陸援隊長)は、この佐川の酒を愛飲し、「天下の芳醇なり、今後は酒の王たるべし」と激励の一筆を寄せ「司牡丹」命名。「牡丹は百花の王、さらに牡丹の中の司たるべし」という意味であります。
当時の建物で現在も残存しているのは東町の長大な倉庫(貯蔵庫)で、酒屋の蔵では日本でも有数の長さを誇る(長さ85メートル、高さ8.5メートル)。建築は天保9年(1838)で黒金屋本家と出店の蔵であった。司牡丹本社や本社横の蔵は黒金屋出店の建物であった。焼酎蔵と「ほてい」の建物は生金屋の蔵であった。
司牡丹酒造の設立 大正7年、同族間で酒販売の競争競合の不利を避けるため、企業合併の話が起こり、誕生した。 即、黒金屋本家(笹の露、玉椿)、黒金屋出店(日之本、若柳)、生金屋(野菊)の3軒の酒屋が合併して佐川醸造株式会社を創業したのがはじまりである。酒の銘柄は千歳鯛とした。しかし、この銘柄は他に同じものがあることが判明し、司牡丹に改名した。そして、その時点で司牡丹酒造株式会社に社名を変更した。
酒ギャラリーほてい(佐川町指定文化財)と焼酎蔵
嘉永年間佐川市街図によれば。この地はタカハシ屋喜助、明治初期図では三橋慎助の名が見える。タカハシ屋は酒造業であったので以前から酒蔵であった可能性が高い。その後、生金屋(アラガネヤ)(浜口家)がこの建物を購入して野菊銘柄の酒を造っていた。大正7年の企業合併により、司牡丹酒造株式会社の蔵となり現在に至っている。なお、ほていは現在、司牡丹の資料展示や酒及び諸雑貨の販売を行っており、司牡丹の試飲も可能である(月曜は休日)
重要文化財
竹村家は、佐川屈指の商家で、江戸後期に苗字帯刀と酒造を許されて酒造業を手がけるとともに、幕府からの巡見使には宿所を提供していた。主屋は、東側の店舗部と西側の座敷部からなり、店舗部は安永9年(1780)頃、座敷部は天保9年(1838)の建築とみられる。店舗部は、広い吹き抜けの土間と、オモテ、チョウバなどの部屋をもつ町家形式で、座敷部は、座敷のほか茶室なども備えた接客空間をもち、当地に特徴的な意匠の座敷飾りや貼付壁を採用している。
竹村家住宅は、幕府巡見使の宿所とされ、武家住宅に準ずる上質な座敷を備えるなど、土佐地方における有力商家の住宅として重要である。
・青山文庫の歩み
明治41年(1910)佐川郵便局長、川田豊太郎により私立図書館「川田文庫」が設立されたのを嚆矢とする。 大正14年、この川田文庫の経営理念や努力に感激した田中光顕は基金7500円と自己の蔵書1万数千冊を寄贈する。 これにより、財団法人青山会を立ち上げ、名称も「青山文庫」と改名する。 その後、田中光顕より逐次、皇室下賜品、維新志士の遺墨、書籍が寄贈される。
○久屋敷 (スタジオ可葉)
かつては (マルキュウ)の呼称で通った竹村呉服店の建物である。幕末-明治初期の建築物と考えられる。 この竹村家は隣接の竹村本家から安永6年(1777)分家されたもので、代々安右衛門を襲名した。当初、質屋、のち呉服及び雑貨商を営む。3代安七の頃には土佐西部で唯一の絹物商として繁栄した。現在は書家の北古味可葉氏がスタジオとして使用としている。
佐川城趾に向かう道、右の家は~
◆浜口家
佐川の古地図、寛永12年図の「古城之追手口」と称された青源寺への参道に入る四つ辻の向かって右手に黒い壁に囲まれた浜口家がある。浜口家の出自は天正の頃、長曽我部信親の家臣であり、江戸期に入り香南市手結より高知を経て須崎に移り酒造業を営み、江戸中期に佐川に来て酒造業(生金屋)を営んだ家系である。
清源寺 藩政時代、この佐川を治めていた深尾家の菩提寺で、観音堂には後水尾法皇を祭っています。
深尾家墓碑は通行止め
城趾の説明、深尾家はわずか15年の領主であった?
佐川城趾から見た街
ギャラリーに行くとご飯の用意が~
センスの良い、身体に良い食材が~ 美味しく頂きました、豆腐もジャコ・ミョウガ・大根の葉・シソ等を混ぜて、ご飯にのせて先ず食し、写っていないが地卵を卵かけご飯で~小玉だが黄身は濃厚で美味かった!
皆さんお世話になりました~
次回会える日を楽しみにしています、と四万十市(旧中村市)に向かう~ 約2時間、久し振りの
「佐田の沈下橋」です。
1年振りに見る「佐田の沈下橋」今年は水量が少ない?
「宮崎 聖」一家、奥さんの「直美」・長女「柚」ちゃん
昨年は柚ちゃんが生まれて奥さんが高知の実家に帰っており、今年が初対面~
今夜はここで独り寝、宮崎一家の住居を空けてくれたのだぁ~
裏は四万十川、風呂場から川が見える~
最初に会ったとき、誰だか解らず手を振ったらニコニコ手を振り返してくれた子だった、こんなに大きくなったのだ(1歳2ヶ月)
聖さんは、カヌーのインストラクターも! これから川に降りてカヌーの手ほどきだぁ~
カヌー教室です、今日は友人の家族がぁ~
あれっ! こんな時間に稲刈りのコンバインダーが?
聖さんの祖母(80歳)でしたぁ~
家族で一番元気、稲刈りから魚獲りまでやって自給自足の生活ができるというスーパーバァちゃん
18:00夕食を予約してくれていたので4人で出掛ける、今夜は旧中村市の召膳「さんげつ」最近、宮崎夫妻が気に入っている店と言う~
さんげつ・大将の「上原 仁」さん、こだわりの料理人で関西の有名な料理屋で修行の身とか・・・
先付け~
地元で珍重されているメジカの新子(ちょっと表現がおかしい?かもカツオの小さいのがメジカでそのまた
小さいの、すなわち生まれたばかりをシンコと呼ぶらしいが?)いずれにしても今の時期しか獲れないので貴重なのか? 味はどうってことは無いように思ったが~
アユの塩焼き、俺は川魚があまり好きではなくアユも開きの半夜干しはよく食べるが!
大きなアユで頭をはずしてガブッと喰ったが、炭火でじっくり焼いた四万十川のアユは身がやや半焼ぐらいであったがそれが美味さの秘訣なのか? 今まで喰った中で一番だぁ~
高知で「リュウキュウ」というハスイモの酢のもの
ウナギの白焼き、写真を撮るのを忘れまた先に喰らった~ 天然物は高すぎるので養殖を、それでも四万十川のシラスは時間をかけて養殖するので通常より数倍高いとか?
俺は白焼きはあまり食べないが酒のツマミには良いね、ご飯はタレで~
養殖「アオサ」の天ぷら、ノリと同じように網の棚で養殖をするという、アオノリは四万十川の天然もの~
ちょっと、油が前に出過ぎの感あり~
これは美味かったフックラでアユの香りと歯ごたえ適度に良し仁井多米とのコラボが美しい、鯛飯等も同じように炊くが、釜にこだわって~(万古焼きのようだが?)
こんな感じの店内でした~ 今日も満腹です、お休みなさい~