座る立つ | 御薗治療院のブログ

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筋力検査を基本にして思わぬ異常部位を見つけ出し、刺激は
ごく弱い刺激で効果がでます。体感する医療を追求しています。

座ることや立つことが運動だと認められない。



認めようと脳がしていない。



空気のような存在だから認められない。




ということなんだろうと思います。



でも考えてみたら意識をなくせば地面にはいつくばります。


はいつくばらないで座ったり立ったりできるのは、どこかの筋肉が緊張しているからですね。




これは運動以外の何者でもありませんね。



しかし、当たり前過ぎて筋肉が動いているという自覚をもつことがないから運動だと認めない。







というのが正しいのかもわかりませんね。


前回の投稿にはこのことを書きました。




教育って恐ろしいと私は思っています。



当たり前に思うことを説明しようとしないんです。




当たり前と思っていることってある意味恐ろしいことでもあるのです。






私が小さい頃、小学校高学年だったと思いますが、父親に



  「蛇ってなんでこんな形しとんのやろ?」




と問いかけました。



父親は、「アホみたいなこというな。お前はそんなことかんがえているからあかんのじゃ」





と怒られました。





なにがどうあかんの?




子供心に、このやりとりをした瞬間のことは今でもハッキリと覚えています。



きっと父親は小学校高学年にもなって、そんな当たり前のことを小さい子みたいに聞くなといいたかったのかもわかりません。




家のどこでそう言われたかも覚えています。




それぐらい父親の一言が意外でビックリしたからだと思います。




普段から常識を常識と思わない私のことを父親は嫌いだったというか苦手だったんだと思います。




しかし、常識という言葉こそその人を非常識にさせてしまうのだと今ならハッキリいえます。





どんな世界でも常識というのがあります。



でもその常識はどうやって生まれたのか?



本当に正しいのか?





そんな問いをする人は稀です。





知識を捨てる。




知識を捨てないと見えないものが一杯あります。



現象を認めないと新しい発見はありません。



現象を認めるためには知識は大きな障害になります。





今起こっていることが常識でないために認められないのですから・・・。





今の常識は、常識を疑って真実を追求してきたほんの一握りの人達が作り上げたものです。



コペルニクスが地動説を唱えられたのも基礎研究があってこそです。




常識を疑うってめんどくさいんです。



常識的な人って、そんなややこしいことなんで考えるの?




って言うんです。



常識があるんだからそれを信じていればいいやん!!



って言っているんですよね。




前回の投稿はちょっとそんな思いを持っている人に書きました。



しかし、私が本当に言いたいのは「常識があるんだからそれを信じていればいいやん」と思っている人の、その思いをぶちこわしたいからなんです。




そのためには強い語気でいわなければハッとしないんです。



ハッとして貰うために書いているんですからハッとしてくださいね。



(笑)





今では地動説が当たり前ですが、星を観測するという基礎が出来上がってからそれが証明された訳です。



そして、それが知識となって常識となりました。



でも今でも一般人の見た目には地球のまわりを太陽が回っているようにしか見えないですよね。




今天動説を唱えれば、知識人には馬鹿と言われるでしょう。



その知識を得た人は、地動説が当たり前と考える訳です。



ちなみに地動説ってコペルニクスが発見した訳ではないようです。紀元前230年にアリタルコスは地動説を唱えていたようです。




天動説が間違っていると考えるのは一般的な常識だと思いますが、それもどうもおかしいようです。




実は天動説が間違っているのではなく、地動説の方が単純に説明ができるからというのが地動説を支持した理由みたいです。



ええ~





そうなん?




自然科学の中ではオッカムのカミソリといって、同じ現象を説明するのに、複数の理論があれば、最も単純なものを正しいとすることになっているんだそうです。



それじゃ~天動説でも間違ってないやん!!




ってことになりますよね。



でも天体の観測の結果を説明するのに天動説では説明が複雑になりすぎるということが一番問題なようです。




つまり地動説は他の現象を説明するのに複雑過ぎて無理があるという理由から間違いと言われるようになったということですね。




う~ん。



自分が今まで考えてきた天動説と地動説の印象が変わったな~。




意味がわかるようなわからないような~。





まあ専門外なのでそれ以上の詮索はやめましょう。





何をいいたいのかがわかって貰えたと思います。




フランスの哲学者ルソーは






「私たちは無知によって道に迷うことはない。自分が知っていると信ずることによって迷うのだ。」





と言っています。



知っていると信じることで迷う。




フィルターがかかる訳です。



色眼鏡ですね。




でも世界は色眼鏡であふれている。




そのことに気付いて自分で確かめるということが大事なんです。


そのためには自分は無知だと・・・





つまり自分はアホだと思っていなければならないということなのかもわかりません。




知識は相手に伝えるための手段であって、真実ではありえません。




だから真実を知るためには知識を捨てなければならないんです。




これがとてつもなく難しいのです。




自分の経験したことだけに頼ってしまうのも問題です。


何故ならそれも知識になっているからです。




物事の本質をみようとすることは、常識も知識も一切ない状態で見るということが求められます。




こうなってくると哲学を超えて宗教にもなってくる訳です。




だから医療は最終的には哲学や宗教を含んでいなければならないと思います。




しかも、一般の人でもわかる内容のものでなくてはなりません。






難しい言葉は逆効果



医療も同じです。