【客観性は、『理性』では担保出来ない‼️】

 

 

精神科の病院に患者として連れて来られる子どもたちが多くいる。

 

でも、精神科医でもあるこの本の著者は、治療が本当に必要なのは、子供たちを病いに追い込む者たち(例えば親たち)なんだ!と語る。

 

しかし彼らは診察を勧めても「私はどこからどう見ても健常者でしょう。病んでいるのは我が子なんですよ!馬鹿なこと言っていないであなたはちゃんとこの子を治療なさい。』と、皆一様に声を強めて診察のすすめを頑なに拒んで来るという。

 

そんな彼らを治療という舞台に立たせるためには、病名が必要だ!我が子や他者の心を押し殺し病気にしてしまうこの『邪悪性』にこそ病名をつけて、世間に周知させる事が必要だと語っている本。

 

そもそも、病院へ連れて来られるこどもたちは精神科業界では『みなし患者』と呼ばれており、彼らを病人として連れてくる、例えば親たちのこの『邪悪性』を病として定義化する必要性を業界は密かに訴えて来てはいたわけです。

 

自己正当化のためなら我が子さえも伴侶さえも悪にしたてる人たちを『邪悪』と呼び、この『邪悪性』を規定し病名をつけたい。そんな本。

 

これが叶うならただそれだけで、この人たちによって生み落とされる病人は明らかにこの世から減るのだから!という本。

 

だからなのか、お題にはある『うそ』という言葉は前半は殆ど使われておらず代わりに『邪悪』という言葉が無尽蔵に使われています。

 

さて、、この本の著者が名付けている『邪悪』の精神を抱えた者、つまり、自己正当化するために「あなたが悪いの、全てはあなたのせいなの」と圧をかける者は、健常者を自称している者の中に一体どれほど存在しているのでしょう。。

 

そう、、マジョリティー(多数派)である健常者もみんな精神的に病んでいることは、実はマイノリティー(少数派)にいるとみえてくる。この世には健常者と病人しかいない。そう、、どっちにしろみんな心病んでることにマイノリティーの人々は気づいてる。けれど、そのことに健常者は氣づけない。コレも言わば健常者の『邪悪』たるゆえん。

 

そんなことを内心で思いつつ読み進めていたら、第4章に、わかりやすい事例が出てきた。この医師、つまりこの本の著者のもつ『邪悪性』が第4章に現れていた。。。

 

当然のごとく著者本人も、己の『邪悪性』には気づいていない。さらに自身の『邪悪』を覆い隠そうと必死に自己正当化に走っている。これもまさに『邪悪性』の症状そのもの。そしてこのことにも氣づけない。ゆえに、自分自身に踏み込めない。これこそまさに『邪悪』の『邪悪』たるゆえん。これでは人が(健常者が)『邪悪性』を病気として規定化することは叶うはずがない。

 

そもそも条件反射として根付いている『邪悪性』を隠し通せるはずはなく、当然社会にこの『邪悪さ』は常に蔓延しているわけで、医師でありこの本の著者自身も、こうして知らず知らずの内に『邪悪性』を曝け出していることが第4章を通してそれがみえてくる、、と私にはみえてしまう、、というレビューです(*^Q^*)絵ヘッ

 

(少し余談になりますが、日本にこの『邪悪さ』が急速に広まり出したのは数十年まえ。そう、世界と日本を比べたら見えてくる。世界の人と比べたら、日本人の『邪悪さ』はまだ可愛いものだと氣づけます。このことについては、いつかどこかで表せたらいいなと思っています。)

 

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この『第4章 悲しい人間』は、心理学の医師である著者が自己防衛のための自己正当化に終始しているように見れば見るほど見えてくる。第3章までにあるようにこの医師の患者が、あるいは邪悪たちが本人で気付かぬうちに自己防衛のため自己正当化を条件反射で行なっていたそれを、この章ではその当の医師が自分の患者や、私たち読者に対し自己正当化を終始行なっているのである。当然それまでの邪悪たちが、自分は正しい、悪いのは子供と申していたように、彼も終始一貫して自分は正しく、患者が悪だという姿勢はけっしって崩さない。。

 

そう、、第4章においては、それまでの『邪悪』と『みなし患者』の逆転が起きていることが見れば見るほど見てとれる。そう、、この章に出てくる患者を『邪悪』ではなく『みなし患者』と見る事ができたなら、この患者こそ、自分を病人として扱うこの世の全ての人の心の奥底に潜む邪悪が見抜けている人なのだということが垣間見えてくる。そしてこの人によって見透かされつつ時折からかわれながら医者自身が延々と診察されつづけ、結局あなたも邪悪だと診断されたことが書かれている章なのだということがわかってくる。。著者本人も気づいていないけれど、これがこの章の本質であり、この章以降は必要ないほどに、これこそがこの本の本質なのです。

 

邪悪とされている未熟で未開で自閉とされる者は、その実、社会から病人とされている『みなし患者』であって、自己防衛が条件反射化した自称健常者によって構成された社会こそ、邪悪のエネルギーを持った存在なのであって、この理解がこの自覚が何より先ず大事なのです。そう、、健常者という名の邪悪性に気づくことこそ、真の出発点!生命史からみたら数百万年という短い時間しか生きていない私達人類が、地に足つけた生命として数十億年続く生命史に人類という名を刻むための最初の一歩なのです!ということに氣がつける本なのです。なんてね(*^Q^*)絵ヘッ

 

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追記♪

 

医師であるこの著者は、この患者と接する時の最初の一歩を間違ったのではないか、、そんな氣がしてしかたがありません。第3章までで紹介されているように、精神科へ来る患者は、患者と親、患者と伴侶という関係の中で苦しんでいる。ゆえに医者は第三者の立場で俯瞰しそれぞれの関係性を客観的に観ることで、患者を理解してゆくという仕事が出来る。

 

しかし第4章に登場する患者には、他の患者のように自分を苦しめている親に当たる相手が存在していない。ゆえに誰かとの関係性の中で患者を見つめることが叶わない。そう、この患者が対峙しているのは医師だけなのだという事実を、おそらく医師は認識できていない。あるいはこの違いを重要視できていない。著者の言葉を借りれば、これが失敗の原因だったのです。ゆえに結局、精神科へ自らやって来るほどこの患者は何に対して苦しんでいるのか、彼女は本当は一体何と対峙しているのか、一体何を問題としているのか、という医師としての入り口にさえも立つことが出来なかったのです。

 

終始決め付けばかりを行なっていて、結局最後まで患者の理解は出来なかったということです。つまり、親目線。。この子は困った子だと、我が子を病に追い込む親目線。。著者の言葉を借りて言えば『邪悪』側に終始居た。。患者が見たあの夢、あれは子ども目線からの親の行動そのもの。。親から精神を可能性を尊厳を押し殺される恐怖と戦う子どもの心の悲鳴と同じ構図だったことに気づけない医師という健常者がいたのです。。

 

『俯瞰』。。。多くの患者にとっては、親や伴侶が登場人物であったように、この患者にとっては医師そのものが登場人物なのです。つまり、これまで患者と親、患者と伴侶を『俯瞰』してみつめてきたように、ここでは患者と自分を『俯瞰』することではじめて医師としての客観性を保つことが出来たのです。そう、自分を『俯瞰』できずに登場人物のまま患者と対峙してしまった。

 

俳優として映画の中に出演いる自分と、客席からその映画を見ている自分との違いです。映画という物語の中にいれば、慌てふためきおののく自分自身に振り回される。でもそれを客席からスクリーンを見るが如く俯瞰することで、慌てふためきおののく自分さえも客観視出来るのです。そう、医師としての仕事がこうしてできる。しかし彼はこの患者から自分を守ろうと必死に自己防衛を繰り返したり、患者の敵認定を行なったり、嫌悪したりと、自分からの視点でしか患者を見れていない。

 

「ご覧のようにわたしたちの周りを太陽が回っている。だから天動説が正しい!」と主張するかのように、自分から見えるものがすべてなのだという思考に陥っている。だから、至る所で医師である自分がなぜ苦しいのか、患者の方が多くの場面でなぜ冷静なのか、そんな視点を持てなくなってる。「いかなる問題も、それが発生したのと同じ次元で解決することはできない」アインシュタインもそう言っていたように、同じ次元では解決できない。これを日本語で言えば、だから『俯瞰する』です。

 

ここでの医師は登場人物のまま、同じ次元の中で必死に理性を保とうとしているけれど、結局全てそれは徒労に終わっている。そう、誰もがこれを経験している。。客観性は、あるいは、冷静さは、穏やかさは、安心安寧安全は、理性では決して担保されないことを。どれだけ理性的にあろうとしても、心も結果も乱れるばかりで解決に至れないことを。。安心安寧安全へ至れないことを。。

 

そんな自分さえをも『俯瞰』する。どんな映画も客席からなら安心して見ることが出来るが如くに。そう、理性ではないのです。『俯瞰』なのです。『俯瞰』して地動説をといてみせたコペルニクスの思考方法に、ケプラーやガリレオ、ニュートンらが刺激を受け、物理学を加速度的に発展させ現代文明の基礎をつくった。そう!科学の発展の原動力は理性ではなく俯瞰だったのです。そう!科学的思考とは理性的に云々、論理的にうんぬんではなく、俯瞰して思考することなのです。

 

ところが教育は俯瞰ではなく理性を説くというミスを犯した。教育を通して人類を進化させるチャンスをこの時は逃していたのです。。そう、、どれだけ理性を駆使しようとも、当事者意識の中で人間性を失ってゆくのは同じですものね。自分自身を俯瞰する術を獲得する。『俯瞰』こそが精神進化の思考法。。これもまたこの本から学べること、、って気がして追記しちゃいました♪

 

追記♪ 202311140141

第4章にて診えてくるもの、、『理性』の限界。。客観的第3者の目線をはずれ、、当事者意識にはまってしまった時、『理性』の限界が現れる。まさに第4章にそれが現れている。医者が理性的であろうとする程に、理性さは失われ、必死に必死の自己正当化オンリーという邪悪の症状になっているのが診えてくる。「私はどこからどう見ても健常者でしょう。病んでいるのはこの人なんですよ!」オンリー。まさに医者自身がいう邪悪性。。

 

余談♪

デカルトが教育の場に、教育のベースに押し上げた『理性』。でも『理性』の本当の活躍の場は教育ではありません。『理性』が真に牽引してきたものは実は、、『信用創造=貨幣創造』。。そう!『credit creation』。ヨーロッパ文化の最大の功労は『信用創造』とう貨幣制度を創造したことと思う私です。『理性』が本当に牽引したのは『経済』なのです。ここらはいつか機会があればゆっくり丁寧に♪