1月24日、尼崎の塚口南地域学習館で、「上方の大衆文化を楽しむ」の題でお話しました。
 大衆文化の定義をしだすとむつかしいので、それは避けました。そこで思いつきましたのが、拙著『上方落語 流行唄の時代』の宣伝でした。「落語・流行唄・大阪の出版・歌舞伎・役者・大阪相撲・上方浮世絵」の副題をつけ、中身は相撲と落語を中心にしました。ほんとうは「芝居と相撲」にしたいところでしたが、歌舞伎・文楽は他の講師の方が話される予定とのことでしたので。

 小さな、わずか四丁(8頁)の流行唄の歌詞本の表紙に、咄家(はなしか、落語家)の名前がしばしば出てくること。それらの歌詞の内容から、歌詞本の出版された年が推定できるものがあること。自分が持っている本の現物も見てもらいながら、いくつかの例を説明しました。

講演風景
①林屋正翁(初代林屋正三)新作「忠臣蔵大序より切迄 十二だんつづき文句 いよぶし」大阪府立中之島図書館蔵(80頁の図版)
 忠臣蔵三段目切、城明け渡しの場面。いよぶしの流行期から弘化三年(1846)午(うま)の年九月の刊行かと思われます。作者の正翁は上方林屋の祖と考えていい人。三人遣いの人形遣いがはっきり描かれているのが珍しいものです。

②桃のや馬一作「新板づくし物 とつちりとん」大阪府立中之島図書館蔵(82頁の図版)。
この中の「浪花で名高きはなし家名よせづくし」を読んでいきますと、今日忘れられた咄家の名が見られ、ふりがな付きなので、呼び方も確認できます。同時に、この本には「当時すもふ関取名よせづくし」の歌詞があります。
 ここから、話は大阪相撲の歴史に入っていきました。江戸と異なる形式の大阪の相撲番付、その日の勝負の速報を記した瓦版「勝負附」、当時は役者と同じように頻繁に改名した相撲取の経歴を知るための「諸国相撲関取改名附」。そして、上方にも相撲の錦絵があり、おもちゃ絵もあった例を、実物から理解していただきました。
上方の相撲おもちゃ絵


③林屋文笑作「大つ絵ぶし」著者架蔵。(104頁)
落語家の見台が、現在使用されているような平らなものではなく、江戸時代は「書見台」の形だったことを話しました。

④吾竹改め竹我戯作「中村歌右衛門あづまみやげ いよぶし」著者架蔵。(117頁)
この一枚から、笑福亭の祖に近い二代目笑福亭吾竹が竹我と改名した時期がわかることを考証しました。この竹我が初代笑福亭松鶴の師匠にあたる人です。

⑤笑福亭松鶴戯作「(海老蔵死絵)」著者架蔵。(187頁)
初代笑福亭松鶴が、安政六年(1859)に没した五代目市川海老蔵(七代目市川團十郎)の死を悼んで詠んだ大津絵節が載っています。役者絵で有名な三代目歌川豊国が描いたみごとな錦絵です。この海老蔵は天保の改革の贅沢禁止令にかかって、江戸を追われ上方に住み着いた人でした。最後はまた江戸に帰って亡くなりますが、上方滞在時代に松鶴と親交があったのかもしれません。

⑥笑福亭松鶴調「川竹ノ 大津画ふし」東京大学総合図書館蔵。(195頁)
これは初代松鶴の舞台図が描かれているのが貴重でしょう。頭が「火消し壺」に似ていたと伝わるのですが、これまで図像は確認されていませんでした。

⑦笑福亭松鶴戯作「蚊蚤の色はなし 大津画ぶし」著者架蔵。(198頁)
流行唄の替え歌には艶っぽいものが多いのですが、これはその一つ。女性の肌にふれることのできる蚤を、蚊がうらやましがるという歌詞です。

⑧笑福亭松鶴愚作「筑後芝居において 大谷友松名残リ 大都会ぶし」著者架蔵。(192頁)
薄い紙に摺ったもので、錦絵というには粗末なものですが、一養亭芳滝の絵が鮮やかです。芳滝は全国的には知名度が低いと思われますが、上方では幕末から明治初年に大活躍した浮世絵師でした。酒が大好きで、晩年は堺に住んで、酒屋さんに絵を描いてあげて、酒を飲んで暮らしていたようです。

⑧『新作さわり よしこの咄し』肥田晧三氏蔵。(266頁)。慶枝改四代目桂文治の舞台図。
上方落語中興の祖といわれる桂文治の名前は、三代目から江戸と上方の両方にできます。これは上方の四代目文治(初代桂文枝の師匠)の図です。描いたのは雪花園、すなわち初代長谷川貞信。この人は先の芳滝と覇を競う有名な上方浮世絵師でした。現在も続いている名前です。②で御覧いただきました相撲のおもちゃ絵にも「雪花園」「貞信」の署名がありました。

 拙著の宣伝がほとんどでしたが、本には入れていない相撲の資料や上方浮世絵も少し見ていただきました。上方の大衆文化として、大阪相撲や上方浮世絵にもっと興味をもってもらいたいと願っています。