埼玉県行田市の忍城(おしじょう)の址を見に行った。2月8日の月曜日。快晴の日で、東京に来る途中富士山もきれいに見えた。東京駅から高崎線に乗って、一時間。持って行った『大阪繁昌誌』を読みかけると、うとうとしてしまって、あっという間に着いてしまった。
 行田に着いたのは午後2時。例によって、観光案内所に立ち寄り、話を聞く。今晩の予定は入れてなかったので、ゆっくりのんびり見て回ればよいと思っていたし、忍城だけ見れば、あとは付け足しなので、しっかり説明を聞かなかった。けれど、遠方から来た観光客と見えたのだろう、あれもこれもと案内してくれ、「バスはあまりないので、今止まっているバスに乗れば」と勧めてくれる。あわてて乗りに行って、運転手に「忍城に行きたい」というと別のバスだと教えてくれた。
 どこの町でもそうだが、JRの駅は町の中心部から離れている。水城公園前で下りて歩いて行く。池がいくつかあって、それらは道や橋で分断されているが、どうもみなつがっているようだ。『のぼうの城』で読んだように、このあたりが低湿地帯だったことを思わせる。池では「投げ釣り」禁止の看板が立っていたが、釣り糸を垂れるだけならよいということなのであろう、多くの釣り人がいた。十分ちかくじっと見ていたが、うきはぴくりともしなかった。定年退職後の人達なのであろう。ほんとうにのんびり暮らしている感じだ。
 月曜日なので城の博物館は休館。案内所のおばさん(失礼、お姉さんかも)は「お城には博物館から入るので、今日は入れませんよ」と言っていた。とにかく近くまで行こうと近づいたが、なんのことはない、三重櫓の中に入れないということで、門のくぐり戸は開いていて、城内に入ることはできた。城址だからこんなものだろうが、狭かった。石垣の基低部は古そうで、かつての名残はあった。自動車道で分断されている向こう側に、森があり、その中に諏訪神社があった。もともとはこのあたりも城内だったのだろう。昔の忍城の鳥瞰図もあり、それを見ると、石田三成でなくても水攻めは思いつきやすい。けれど逆に、ここで生活していた人達は、水との付き合い方をよく知っていたはずだ。三成の水攻めの失敗は、素人でもうなづけるように思った。
堀から見て

 帰りに、市役所(?)横の少女の裸像を見た。草原の中に何の説明もなく、ぽつんと立っていた。古代蓮の池もあった。今は枯れていて、看板がなければきづかなかっただろう。三成軍が陣をしいた丸墓山に行こうと思ったが、バスがわからない。産業文化会館前のバスターミナルでバスを待っている老婦人に聞いたが、とにかく本数が少ない。「元気なら歩いて30分」と聞いたので、歩いて行くことにした。
 歩いたおかげで、佐間口古戦場跡の高源寺に寄ることができた。正木丹波守が終戦後出家して建てたという寺で、小さなひっそりとした寺だった。戦国の戦の戦死者の供養塔があったが、見るからに新しい。若い頃は墓石調査をしたこともあったが、墓地には入らなかった。
 また歩きはじめる。荷物を持ったままだったし、疲れてきた。駅でレンタサイクルを借りればよかったと後悔する。バス停があったので時刻表を見ると、1時間に一本のバスがもうすぐ来る。まだ4時。時間はたっぷりあるので、いったん駅に戻ろうと思って乗った。案内所でもらった地図をみながら、行田の中心部を眺める。はじめは、観光バスの気分で、これもなかなかいいものだと思っていたが、そのうちに町中をはずれて、どこを走っているのかわからなくなった。「けど、どこか駅には着くやろう」。しかし、終点が郊外のバス折り返し地点だった。折り返しなら、すぐに折り返すのかと思って、運転手に聞くと、ほぼ二時間後だという。少し行ったところに、工業団地という循環バスの停留所があり、30分毎にあるからそこへいけばと教えてくれた。知らない路の「少し」は遠かった。やっと着いたがちょうど出たあとで、30分待った。三成が陣をしいた丸墓山はあきらめた。それでもバスから眺めることはできたし、石田堤の一部も見えた。
 満足して駅に着いたのは、6時前。駅前の中華料理店で夕食。ビールと紹興酒。餃子を売りにしている店らしかったので、定食と餃子を頼む。上品な薄味の餃子で、ちょっと意外だった。店員さんの応対もよくて気持ちよかった。