西川美和監督 「ゆれる」 完全考察 | 某大学生のたそがれべいべー5-to the お好み焼き編

西川美和監督 「ゆれる」 完全考察

*小説は未読ですが、他の方の感想で内容は知っています。

*ネタばれを多く含みます。

*解説ではなく考察です。個人的見解でしかありません。

 

まず、西川美和監督作品の特徴として、人間の本音の部分というか、

黒い部分を表現するというのがあるというもの(特に人間関係・特に家族関係)の他に

それがさらに濃く表れる「田舎性・地方性」という表現があると思います。

 

ディアドクターは過疎地の診療所(というより過疎の田舎でさらに診療所が舞台という言い方が正しい)

ゆれるでいうところの、田舎のさらにそのガソリンスタンドです。

 

田舎のガソリンスタンドは、地域の人からはインフラ設備として続けて欲しい、

でも経営者としては赤字だったり設備更新に多額の費用が掛かるのでやめたかったりするわけです。

で、店を閉めようとすると地域の人から「止めないでくれ!」と言われる(でもガソリン代以上にお金は出さない)、非常に都合のいい存在。

必然、地域の人は皆同じガソリンスタンドを利用するので、地域の繋がりがさらに濃い場所になります。

 

あのガソリンスタンドは稔そのものだと思います。

病弱で、親の愛情を猛より多く受けてきた稔は、結婚もせず、親の面倒を見て、親戚たちにも気を遣う。(ガソリンスタンドでいう赤字)

本当は全てを投げ出して自由になりたいけど、そうすると親の面倒は?ガソリンスタンドの経営は?と、親族から言われる。

(地域の人から止めないでと言われる状態)

 

でも結婚相手を探してくれるわけでもなく、ただただ都合よく人生を消費されていく。俺はいったい何なんだ?と。

 

対して猛は都会に出て自由にしています。

が、親や地域との関係は非常に希薄です。

親の愛情を自分より稔が受けてきたので、(愛されていなかったわけではないが、兄弟という関係で比較してしまう。)

家や地域に自分の居場所を求めず、外の世界に出ていきました。

 

稔は猛に対し嫉妬や羨望の感情もあったと思います。(猛も稔に対し、親の愛情という点で嫉妬していた)

 

だからといって、二人の仲は悪いわけではありません。

むしろいい方だと思います。

表面的には仲が良い(本心では仲が悪い)、、と評す方もいますが、個人的には特に頻繁に連絡を取り合うわけではないけれど、

十分に仲がいい兄弟だと思います。

 

そもそも、完全に本心や素をさらけ出す相手等この世にいるでしょうか。

きょうだい、家族、配偶者、友人、誰に対しても見せていない部分はあるはずです。

稔と猛はそれぞれ思うところはあるにしろ、(むしろ猛の親の愛情の渇望は、親に対して向けられていたはず)

仲がいい関係が続いてきたと思います。

仲が悪ければ、本心では嫌っているのであれば、そもそも兄弟の会話もないでしょうし、一緒に渓谷を見に行こうなどしないはずです。

 

個人的には、稔と猛は、仮面ライダーBLACKとシャドウムーンみたいな、別の人生の自分、鏡のような存在だと思います。

(同じ親、環境で育ってきた、血のつながりのある存在。猛の方が親の愛情を得ていれば稔が東京に出ていたかもしれない)

 

本作の謎

①稔は智恵子をなぜ追いかけたのか(そしてパーソナルスペースを侵して、嫌悪感を抱かせるほど迫ったのか)

稔も智恵子も閉鎖的な田舎、自身の置かれている環境から逃げ出したいと思っていました。

智恵子は猛の歓心を得るため、稔と仲良さそうにしたり、避妊もしなかったり、猛を追いかけて都会へ出る口実を作ります。

避妊もあわよくば妊娠すれば、っというところまで思っていたのかもしれません。

稔も消費されていくだけの人生を感じています。情けないと。

稔にとって智恵子は片思いを寄せる恋人であり、同じ環境に身を置く同志、仲間でした。

しかし智恵子は田舎を捨てて(稔からすると自分を捨てて)猛(都会)を追いかけます。

だから稔は必死に追いすがりました。

行かせてたまるものか、俺を置いていくのか、行かないでくれ、と。

 

智恵子からするとせっかく田舎から抜け出すチャンスなのに稔(田舎)が追いかけ、まとわりついてきます。

そして拒絶しました。

稔からすると自分が拒絶され、捨てられました。思わず突き飛ばしてしまうのですが、

おそらく瞬間的に「殺意に似た何か」が生まれたと思います。

結果、瞬間的な「殺意に似た何か」で智恵子を死なせてしまいました。

 

②猛はなぜ稔をかばったのか

猛は橋の上の様子をはっきりとは見ていません(実は全部を見ていたのだが、目にしたものの衝撃で記憶が欠落してしまった)。

現場に駆け付けると、自分が殺したと言いそうになる稔の発言を遮り、

事故だ、警察を呼ぼうといいます。

犯罪者の家族になりたくないという保身のためも、もちろんあったとは思いますが、

兄を守りたい、という気持ちが占めていたと思います。

兄は人を殺すような人間ではないと信じたかったのもあると思います。

 

③揺さぶるのは誰か~なぜ稔は猛に有罪にする証言をするよう仕向けたのか

映画の題名や、登場人物、観客の心情までもゆれる映画の為、

登場人物が全員ゆれていると思いがちですが、

何かが揺れるには、揺らす何かが必要なはずです。

 

お互いが揺さぶり、揺らされる関係ではありますが、

作中一番揺れていない、揺さぶっている側の人物は稔です。

 

吊り橋の時点では稔と智恵子は互いに揺さぶり、揺れる関係ですが、

吊り橋以降の、面会や裁判では猛の心を揺さぶり続けます。

猛の心を揺さぶるために時には嘘をつきますが、基本的には真実を話していると思われます。(特に裁判中)

自分が殺したと(殺意があった)思うのであれば、そういえばいいだけです。

 

裁いたのは裁判官でなく猛(もう一人の自分)

稔は猛が橋で起きたことを見ていたのを分かっていました。

だから自分が罪なのか、事件なのか事故なのかを判断してほしかったのだと思います。

一瞬の「殺意に似た何か」で突き飛ばし、結果的に死なせてしまった。

稔は「殺意に似た何か」が殺意なのかどうか、自分では判断できず、事故として処理されたことに、悶々と感情が渦巻いていました。

「一瞬とはいえ殺意だったんじゃないのか」

ですが自分では判断できません。助けようともしたからです。

だからその判断をもう一人の自分、違う自分である猛に託しました。

お前はあの現場を見ていただろう、どう感じたんだ?と。

 

しかし猛は事故として考える側の人間です。

だからこそ猛の心を揺さぶり、事件か事故なのか、

客観的にみれる立場にくるまで猛(もう一人の自分)を揺さぶる必要があったのだと思います。

 

稔は事件なのか事故なのか(あれは殺意だったのかそうでないのか)公平に判断してほしい、というより事件(殺意)寄りに煽っていきます。

もちろん、有罪になりたがっていたというのもあるとは思いますが、

事故に傾いている猛の心を平均に戻すには、事件と思わせ、揺らし続けないければいけません。

(シーソーでいうと片方に重りがのっかっている状態。平均に戻すにはもう一方にのみ重りを乗せなければいけない)

 

繰り返しますが、稔は単に有罪になりたいのであればそう発言すればいいだけなのです。

また、最後の面会で強烈な揺さぶりを猛に仕掛け、それにより猛は稔に不利な証言をしますが、

面会の直後に裁判が行われたわけではありません。

少なくとも1夜、眠らず考える時間がありました。

稔は猛に「言葉は川の音で聞こえなかった。でも意識は届いたんじゃないのか?」「あのとき「観」みていた『殺意に似た何か』は何だったんだ?」と考えさせたかったのではないでしょうか。

結果、猛は「あの時感じたのは殺意だった」と確信し、兄は変わってしまった(人を殺す人間になった)のだと思ったのではないでしょうか。

 

④猛が、稔が智恵子を助けようとしていたことを思い出したこと。

7年後、幼少期の映像を見ていたとき、あの時何が起きていたのかを「思い出し」ます。

稔が智恵子を助けようとした記憶は果たして本当だったのか、記憶の捏造かもしれません。

あの時受けとった殺意が強烈過ぎて、助けようとしていた記憶が吹っ飛んだのかもしれません。

でも、猛は稔が智恵子を助けようとしていたと確信します。

裁判上で「変わってしまった兄を取り戻す」と発言していましたが、兄は何も変わっていなかったのです。

猛が兄を迎えに行ったのは、自分の証言で有罪にしてしまった(本当は無罪だったのに)、というより、

変わってしまったと思い込んでいた兄は、実は何も変わっていなかったんだ(人を殺すような人間ではなかった)と気づいたからではないでしょうか。

(むしろ信じきれなかった自分が幼少期のあのころから変わってしまっていた)

(稔に殺意があり、結果死なせた事実は変わらないので、収監されたかどうかは関係ないと思います。)

 

⑤稔の最後の笑み

本作最大の謎、稔の最後の笑みの意味ですが、

いろいろな感情があるとおもいます。

まず場面、二人の間を道路が遮り、車の音で猛の声は聞こえません。

これは橋の上と同じ状況です。

しかし、立場は入れ替わっています。

橋の上では稔の声は届いていませんでしたが、ラストシーンでは猛の声は届きません。

音声が途切れ、稔が猛に気づき、笑みを浮かべます。

車が途切れ、猛の言葉が稔へ聞こえました。

 

「兄ちゃん、おうちへ帰ろうよ」

 

ただ、言葉が届いたというより、

この言葉にいろんな感情が込められ、今度は稔が猛の意識を受け取ったんだと思います。

 

笑みの意味を一言で表すことはできません。いろんな感情が含まれているからです。

それでもあえて解釈するとすれば、

 

まず恨みや悪意はないと思います。

むしろ、自分を裁いてくれた(むしろ苦しみから解放する判断を下してくれた)弟を恨む必要がないからです。

 

私の見解としては

「ありがとう」だと思います。感謝、という漢字二文字ではなく「ありがとう」

会いに来てくれて、うちに帰ろうと言ってくれて、

何より自分に幼少期のような、素の、くしゃくしゃな泣き顔をさらけ出してくれて。

いろんな思いや感情が込められていると思います。ですから、恨みはないと思います。

裁判中猛の心を揺さぶっていた稔ですが、

ラストシーンでは猛が稔の心を揺さぶったのです。(立場の逆転)

 

そして、うちには帰らずバスに乗り、二度と会わなかったと思います。

ようやく、自分を消費し続ける田舎から解き放たれたからです。

 

最後に

撮影に前に、香川照之とオダギリジョーに、芥川龍之介の ユダの物語の短編を読むように指示したらしいのですが、

本作でユダは猛もですが、稔もユダです。

お互いが相手を愛し、しかし憎しみと共存する部分もあり、悶え苦しんでいます。

結果、稔は猛を、猛は稔を裏切りました。

そういう、特に同性の兄弟の、親からの愛情の差、現状の差、愛憎を田舎という鍋で煮込んだ感情を表現した作品だと思います。