★あの頃のこと
3月もあと10日ほどになりました。今日は忙しくて彼岸の入りに行けなくてやっと今日菩提寺に行くことができました。2012年に現在の通称かさ神さん、延算寺に故郷の実家から墓地の移設をいたしました。亡くなられた先代の住職と実家の住職は高野山の同期ということで紹介してもらったのが始まりでした。
私は住宅メーカーに勤めていましたので転勤族でした。店の経営改善をして軌道に乗れば次の転勤ということで転々としましたがこの岐阜にきて社員が土地を買って欲しいということできました。買うことでその資金で新しい家ができるというわけです。正直そういう話はよく社員から持ち込まれていましたがその時なぜか中古の平屋の家を買ってしまいました。勿論転勤がついてきますので即売る予定でしたが何故か建ててしまったのです。そうしますと子供たちも大きくなりますし結婚もし、親戚もできるということで動けなくなり実家でも唯一の兄弟だった弟が39歳で亡くなってからもうあまり故郷に帰る気もなくなり、親戚の従弟もみんなバラバラで一族は離れ離れになってしまいました。
そんな状況で岐阜に骨を埋める覚悟ができたのです。来週29日は父親の27回忌になります。月が替わり4月11日は父親の命日です。みんなの時間が合わないので、遅いより早いほうがいいものですから結局29日に法事を実施しすることにしました。
それにしてもこの中部地方は縁が深いのでしょうか。私は大学受験は東京一択だったので中部地方は全く考える余地もなかったのですが実際には運命のようにこの地に住んでしまいました。あの2月中旬に大学を受験し失敗をして浪人覚悟でいましたが意外な展開になってしまいました。東京は私は母親と二人三脚で目標とした大学がありました。高校の化学の先生が母親と同級生で随分担当の先生以外ににサポートをしてくれましたが、合格をしたと思ったのに落ちてしまったショックは将に父親が亡くなった時桜が散った絨毯のような無情な体の腹に手を突っ込み内臓をかき混ぜるようなそんな同じ苦しみを感じました。
その頃付き合っていた彼女とは大学2年まで付き合い結局別れますがその後、彼女が付き合っていた彼女と同じ名前だったということ、下宿先が近くということ、部活が同じだったということなどが重なり付き合っていくことになりました。私の作品集Ⅲ「ミサンガの約束」はそういう環境から書かせてもらった作品でした。
大学受験に失敗して信じられない私は浪人を覚悟をしていました。四国の人口15万の町に予備校などあるわけでもなく今のようにオンラインやネットなどはなく自分でやるしかなかったのですが浪人は致し方なくということよりも東京に行かなければジャーナリストになれないと思い込んでいたことも事実です。しかし、失敗したわけですから浪人をするとのんびり彼女と話していた処に本家の叔母さんが私の部屋にきて父親に再婚を認めてやってくれと頼みこんできたのです。昔は本家分家はまだ成り立っていました。
父親も直接は言えなかったのでしょう。母親が亡くなって2年目のことでした。結婚する女性の父親は愛媛大学の教授でしたがそんなことよりも私は「家を出る」という一心で先生と相談し探してもらい名古屋にM大学が3月24日に香川大学で受験ができるがお前の希望する東京でなく名古屋だけどどうするかと言われましたが私は行きますといったことを覚えています。
あの時弟は小学5年生であまり話もしなかったですがどうしていたのでしょうか。レース鳩に夢中になっていました。伝書鳩は当時は結構盛んだったようですが私は関心はなくあまりそのことで弟と話をした記憶はあまりありません。そういう事情で私は故郷を逃げるように四国を出ましたが故郷には彼女と別れてからはほとんど帰りませんでした。
就職は時代がよく高度成長の真っ盛りで就職の心配はほとんどありませんでした。そこで瀬戸内放送局に就職をしようと彼女を放送局の前で待たせてパンフレットを貰いに行きましたがすでに試験は終わっていました。仕方なしに当時住宅会社御三家といわれたT住宅に就職をいたしました。もうそのころには彼女とは別れていましたが大学時代の彼女が高松まで追ってきました。彼女は難関で有名な京都女子高校の出身でした。大垣の子で京都女子中学に行ってM大学に来たそうですが彼女は一浪をしていました。つまり私とは同じ年だったわけですが私は冬の時期に何かが起こるのです。彼女とは大垣城で別れたのですがその後も電話では繋がっていました。私は当時瀬戸内文学の同人になって小説を書いていましたが結局は手紙を書くことが多かったです。文章を書くことはあまり苦痛ではなく書き込んでいますので書きながら考えるって感じですから話が飛んだりよくします。そして彼女が高松にきて別れることになりますが、屋島の展望台で別れる話をするのですが結局何も解決しませんでした。
当時会社にはコールセンターがあったのですが何度も電話をしてきていました。コールセンターの女性が怒って電話を私の前で掛けてほとんど強制的に話させられました。私たちは随分長い時間黙って話をしなかったように思います。ただ荒い息遣いと泣いていることは容易に想像は出来ましたが結局「さようなら」と彼女のほうから言って受話器を切ったのです。ガチャンという受話器を下す音が事務所の中にまで聞こえるようでした。訳の分からない声を叫ぶように吐き出し私は車に乗って彼女が泊まっていたホテルまで行きましたがもう彼女は去っていました。その時「お預かり物があります」と言われ紙袋をフロントの女性が渡してくれました。その紙袋には「ミサンガ」が入っていたのです。
高松駅まで走りました。花時計を横目に見て構内に入り彼女の名前を呼ぶのですが彼女は現れませんでした。遠くのベンチから立ち上がり振り向く女性が見えましたが彼女とは違うような気がしました。まだ確かにいるはずなのですが彼女の決心は堅かったのでしょうか。それにしても何のために一度大垣城で別れたのに高松まで来たのでしょうか。当時は彼女は大学4年生でした。私がアルバイトを世話した会社にそのまま就職をしたようですがあのことは何だったのでしょうか。私は結婚したいと思い彼女と付き合ってきたのですが彼女は「男はアクセサリーよ」なんて笑っていました。私だけが結婚を意識していたのでしょうか。よくわかりません。
何度も駅の構内で彼女の名前を呼びますが彼女は出てきませんでした。その夜私は彼女の手紙や写真はすべて破り捨てたのです。三島由紀夫の「美徳のよろめき」の最後の一行のようにね。
あれからもう何十年も経ち思い出だけが残るようになりました。たまに会いたいなと思う時もありますが互いに昔の記憶だけにしたほうがいいのだろうと思ったりします。先日、しかしFacebookで彼女を見ました。苦笑する私がいましたが彼女もまた私の写真を見て笑っていることでしょう。
あの頃の学生時代私たちは非常に1960年から1970年にかけて学生運動が盛んでした。激しく討論ばかりしていました。神社の境内で酒を飲みながら朝まで議論をし中部地区で文学サークル「愛文協」を作り機関紙「鯉門文学」を刊行ました。だから当時の東海地方の大学にはほとんど読書会に参加をし話をしました。隣にはいつも彼女がいました。小林多喜二の「蟹工船」を文学ではないと私が言ったのが火をつけて波状攻撃を受けて炎上してしまいました。純文学ではないということなのですが説得できず非難ごうごうでした。「個人攻撃をするのは卑怯よ」と彼女は頬を膨らませ全員の前ではっきりと言い切ったのです。彼女はかなり気性がきつかったのですが可愛いというか非常に個性的でしたので大学では人気の的でした。そういう意味かどうか分かりませんがその場は収まり私たちはタクシーの中で互いに黙って手をつないでいました。私は声を押し殺し頬に涙が流れるのを拭こうともせず窓から外を眺めていました。夕闇にネオンが輝きはじめ長い一日が終わったのです。彼女は元気にしているのでしょうか・・・。
私のあの頃の手記です。
いい時代でしたがもう私は若くはない。そう思う日々ですが悔いのない一日を過ごしたいものです。今日は「あの頃」ということでつまらない3月の頃のことを書いてみました。
<今日の言葉>
「自分が苦しいときは、ライバルもまた苦しいのです。そう思うと,いたずらに苦しんで走ることの無意味さがわかります。自然のまま、静かに走ることで、闘志の燃焼をさらに深められるようになったのです」
瀬古利彦
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森田童子「みんな夢でした」





























