刀装と服装 (江戸幕府の官位制と服飾の関係) | Yoshimasa Iiyamaのブログ

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日本刀の拵ー刀装・刀装具(鐔・目貫・小柄・笄・縁頭など)・風俗・習慣について ー 日本刀装研究所 ー

刀装と服装 (江戸幕府の官位制と服飾の関係)  「刀剣美術」第685号掲載

「青標紙」衣服制度的例より
青標紙

 私、元来時代劇が好きな上にアニメーターという職業柄、時代考証や風俗を調べる機会が多々あったことなどから、刀装や刀装具に趣味を持つに至った次第です。好奇心が旺盛な性格から時代考証の書籍も多数読みましたが、著者に依って見解の相違があることなどから、資料をもとに書かれておられる方の著作に傾倒してゆきました。そこに提示されている資料を探しに刀剣博物館の資料室をはじめ国会図書館や刀剣店・古書店を訪ね、購入出来るものは買い、そうでないものはコピーをして勉強しておりました。そんなある日、大野権之丞広城著の「青標紙」に出会い、江戸幕府における服装の制度を知ることが出来ました。そして、さらに詳しく描かれた「徳川盛世録」の彩色図版を手にしたことから、刀装と服装の関係を具体的に記述してみようと思いました。
 源頼朝は武家であることにこだわり、織田信長は公家の官位制を無視したが、豊臣秀吉や徳川家康は公家の官位性に固執しました。後の歴史学者をして「幕府崩壊の原因のひとつではなかったのか?」と言わせる程、江戸幕府は公家の官位制を取り入れています。
 官位制は公的行事における服装の相違で身分の上下を顕著に見ることができます。
映画や歌舞伎でおなじみの「忠臣蔵」松の廊下の場面での浅野内匠頭と吉良上野介の服装をみれば、その身分の上下が明確です。
そして、刀装も服装にあわせて定められていましたので、官位と服装・服装の関係を解りやすく表(図1)に纏めてみました。

<図1> 【注】表中で「脇差・刀」とのみ表記している拵は、大小揃の拵でなくても構わないという意味です。


従一位の太政大臣になった将軍は、家康・秀忠・家斉の三人のみで、通常は正二位の内大臣(左大臣と右大臣)でした。
その上の正一位になった武家は豊臣秀吉と秀次の二人のみで関白になっています。
水戸徳川家は、御三卿・御三家の尾張・紀伊より低い身分にされ、また、将軍を出せないという家柄ですが、将軍の補佐役とされ参勤交代の義務がない常府であり、血縁の有力藩も少なくないなどかなり優遇されていました。
 「水戸黄門」でお馴染みの「黄門」は唐名です。「前田宰相」や将軍を「大樹」と呼ぶのも唐名の呼称からきています。

ではつぎに、視覚化して分かりやすくするために、「徳川盛世録」(注1)の服飾図にその礼服時に用いる刀装を図示したいとおもいます。


束帯(黒)

将軍以下、従四位侍従以上が用いる大礼服で黒色に丁子唐草の織文。将軍は丁子唐草に葵紋の織文。四月から九月の夏服は単(ひとえ)、十月から三月の冬は裏付。
公家は木製漆塗の沓(くつ)を履くが、武家は緒(お)太(ぶと)という藺(い)草(ぐさ)製の草履を履く。
太刀は、総長三尺二寸、六寸の白鮫柄に二尺六寸の蒔絵鞘の飾太刀拵・細太刀拵。
〔将軍宣下当日と紅葉山参詣(正月十四日)に着用〕

束帯(浅緋)


一般大名や御三家の家老、五位無官・諸大夫が着る大礼服。
浅緋色で夏は単、冬は裏付。太刀は四位以上と同じ。
〔将軍宣下当日と紅葉山参詣(正月十四日)に着用〕




 ◇飾太刀拵(飾剣・飾太刀代・細太刀・蒔絵太刀拵)
 奈良時代の唐太刀を荘重華麗に発展させた平安時代からの儀杖用太刀で、本来、武用のものではなく、公家が束帯着用時に佩用する拵です。白鮫に俵鋲を据えた柄、葛金付分銅形の唐鐔、梨子地に螺鈿や切金、高蒔絵を施した鞘、唐草文等を透彫にし玉を嵌めた長飾金具で出来ています。 これらの豪華な金具を簡略にした拵を、「飾太刀の代」「細太刀」などと呼んでいます。
「飾太刀」(重要刀剣図譜)


「細太刀」(重要刀剣図譜)




衛府太刀・毛抜形太刀拵
平安時代からある拵で、儀仗用ですが武官が用いた性格上、武用の太刀拵になっています。木爪形の葵鐔がつき、当初は共柄に毛抜形を透かしてあったものですが、鎌倉~江戸期のものは、柄の中央に毛抜形の文様を表した飾目貫や柄板を使用しています。鞘は金梨子地に定紋散らしが通例です。官位三位以上は金作、四位以下は銀作を用いる。 元来は衛府の武官が佩用した柄に毛抜形の透かしがある武用の拵でした。

「毛抜形太刀拵」(重要刀剣図譜)




衣冠【黒】


将軍以下、従四位侍従以上が用いる大礼服で束帯に同じ。
太刀は衛府太刀(毛抜形太刀)を佩用。三位以上は金の金具を用い、四位は銀の金具を用いる。
〔紅葉山参詣(正月十四日)に着用〕



衣冠【浅緋】


一般大名や御三家の家老、五位無官・諸大夫が着る大礼服。
太刀は糸巻太刀を佩く。金具は銀製。
〔紅葉山参詣(正月十四日)に着用〕




直垂


権少将以上の武家の冠服(礼服)。
色の定めはないが、通常将軍家は江戸紫、その嗣子は緋色。
浅黄・萌黄は秀忠・家光の着用した色なので憚って用いない。
黑色は凶事に用いた。
小さ刀を帯し、供奉(行幸や将軍の供などの行列に加わる)には糸巻太刀を佩する。
〔正月元旦・二日に着用〕


糸巻太刀拵
  金具は赤銅造り、金で定紋を散らし、柄糸は茶、浅葱、紺、萌葱等を用いています。黒糸は、凶事に用いられました。供奉には佩しますが、通常は供の者に持たせました。
(注)供奉(ぐぶ): 例えば正月十七日の紅葉山参詣などの、将軍の行列に供として加わること。     江戸初期(慶長の頃)は、衣冠着用時にも武家は主に糸巻太刀を用いました。鷹狩りや、甲冑着用の折りには虎斑入りの尻鞘を付けて佩します。大名間での贈答品や社寺への奉納品ともなる格式の高い拵です。

「糸巻太刀拵」(重要刀剣図譜)


小さ刀拵
  直垂ヽ狩衣ヽ大紋ヽ布衣ヽ素襖ヽ熨斗目長上下の着用時に用いられる拵です。つまり、長袴を着けた時には必ず用いるということになります。
 江戸初期頃までは、鐔のつかない「腰刀」を小さ刀とも呼んでいましたが、その後は鐔の付いた脇差拵が通例となりました。刀拵同様に小柄、笄がつき、鐺は「切」になっています。下緒は刀拵と同じ長さ(五尺)のものを用います。柄は角頭掛巻が本式とされていましたが、定めはなく赤銅魚子地に家紋の縁頭や、出鮫に小鐔がついた腰刀との中間のような拵も用いられ、後期には復古趣味が流行り海老巻腰刀などの腰刀様式も使われました。
 (注)小柄と笄がつく両櫃の鞘は切鐺、小柄のみがつく片櫃の鞘は丸鐺というのが、すでに室町期には慣例だったようです。これは現存する当時の拵からも察せられます。`
「小さ刀拵」 (重要刀剣図譜)



「小さ刀拵」幕末 復古趣味の腰刀様式 (重要刀剣図譜)



狩衣

侍従の冠服。家の紋を地紋にした夏は紗、冬は練・平絹を用いる。色の定めはない。
奴袴は浅黄色。武家は足袋をはかない。
小さ刀を帯す。供奉には糸巻太刀を用いる。
「忠臣蔵」でお馴染みの吉良上野介の衣裳。
〔正月元旦・二日に着用〕



大紋

五位諸大夫の礼服。
色、定めなし。背・左右の袖中央・前身と袖との左右の縫目、袴の両膝の上・腰の下の計八個の大きい家紋を染抜きにしている。〔内衣〕冬は熨斗目、夏は白帷子。
小さ刀を帯す。供奉には糸巻太刀を用いる。
「忠臣蔵」の浅野内匠頭でお馴染みの衣裳。
〔正月元旦・二日に着用〕



布衣(ほい)



無位無官で免許をえたものの冠服で大紋と素襖の中間。侍従以上の諸大名の家士も着用。
幕士は織文の無い地質精巧。諸大名の家士は絹布。
奴袴は浅黄色。足袋ははかない。
小さ刀を帯す。供奉には糸巻太刀を用いる。
〔将軍宣下当日と正月元旦・二日に着用〕


素襖


侍烏帽子掛緒組紐は定めなし。喜連川家(足利家)は紫紐を用いる。
幕臣は、布衣以下三千石以上と三千石以下御目見以上勤仕の者。諸大名の家士も着用。
地質麻、色定めなし。紋は上衣の背・左右の袖、前身と左右の袖、袴の腰板と左右の相引にそれぞれある。計十個。
大紋と似ているが袴の家紋の位置や胸紐・袖括・菊括が紐でなく革などの点が異なる。
小さ刀を帯す。供奉には糸巻太刀を用いる。
国宝・渡辺崋山作鷲見(わしみ)泉石(せんせき)像の服装
〔将軍宣下当日と正月元旦・二日に着用〕

熨斗目長上下

上下は麻製で長上下と半上下がある。長上下は袴の裾を長く引き足を覆う。主にお目見得以上が着用。熨斗目には腰に織縞があるものと無地のものがあり、無地熨斗目は婚礼と葬儀のときに着る。婚礼には鉄色を用いる。小さ刀を帯す。
〔正月三日と七日(七草)に将軍家と出仕の面々が着用〕
〔五月五日(端午の節句)には、熨斗目を染帷子の単衣に替えて将軍家と出仕の面々が着用〕
〔七月七日(七夕)・八月一日(八朔)には、染帷子を白帷子に替えて出仕の面々が着用〕

継上下

お目見得以上の平服。肩衣は無地・小紋で色・生地の定めは無い。衣服も通常は紋付だが縞でも構わない。城内では脇差のみを帯する。登下城時には刀を差し、大小拵を正式とする。
〔正月八日に着用〕
※最幕末期は肩衣勤の定めが無くなり紋付羽織袴での登城でした。

麻上下(半上下)

肩衣勤の士分が着用。礼装時には熨斗目を着る。
〔六月十六日(嘉祥)には、万石以上の大名も登城の全てが染帷子で着用〕
※お目見得以下の御徒でも士分なので登城の際は、家士・槍持・挟箱持・草履取などの供揃いが必要だった。また、帯刀は刀の鞘尻を下げない所謂閂差にして威厳を表した。
【注】 同心は士分では無いので馬に乗ってはいけないし、雪駄も履けなかった。

 ◇刀拵
 熨斗目長上下着用時に、小さ刀と共に用いる打刀拵で、黒塗角頭懸巻柄、黒蝋色塗鞘、赤銅の縁と鐔(磨地・魚子地に無紋あるいは定紋散し)、三所物付きとなり、柄は必ず白鮫着せです。 笄・小柄の付かない刀拵は「盲刀」といって嫌われ、婿引出物などの贈答に用いる刀拵には、必ず笄と小柄が付きます。
 ◇大小拵
 半上下着用時に用います。大(刀)の鐺は切、小(脇差)の鐺は丸になります。大は無櫃または両櫃、小は片櫃で小柄のみ付きます。下緒は大が五尺、小で二尺五寸が定寸になっています。熨斗目着用の礼装の時には角頭懸巻柄が正式になります。
刀拵 (重要刀剣図譜)


大小拵 (重要刀剣図譜)


 
短刀拵
  礼服着用時には使用されない拵で、訪問や接客の時、羽織袴の服装で用いられる私的なものだったようです。出鮫柄葵紋二所付の合ロ拵も、礼装時のものではなく、羽織袴着用の際の拵です。 しかし、幕末の最後、幕府崩壊寸前の頃にはこれらの格式にこだわってもいられなくなり、江戸城に登城 する際の裃着用(肩衣勤)の定かなくなりました。重役たちまでが紋付羽織袴で登城し、それに伴い短刀拵も公な拵とされるようになったようです。
 なお、短刀拵は袴着用時には、その紐に差すのが通例でした。また、「前差し」の別名があるように身体前面の左寄りに差します。

短刀拵(重要刀剣図譜)



 柄は出鮫で白、鞘は丸鐺、下げ緒は脇差のものと同じ長さ(二尺五寸)です。



< 参考資料 > 
                
「青標紙」大野権之丞広城著 (天保10~11年刊)
武家故実書。幕府にとって法令等が公開されることは不都合であり、天保11年6月9日に、大野広城は幕府より綾部藩に永の御預けになり「青標紙」も発禁となった。同年9月11日に死亡している、一説には憤死と言われている。
(注1)「徳川盛世録」市岡正一著(明治22年刊)
 江戸幕府・幕臣の儀礼のすべてを絵入りで解説した書。明治22年、徳川家康入府三百年を記念して刊行された。将軍宣下から江戸城での大名・旗本の席次、城中・市中の供連、江戸城の諸門、年中行事、冠婚葬祭、服装などを図示して解説。

「徳川盛世録」市岡正一著 東洋文庫496 平凡社 (1989年刊)

「江戸幕府役職集成」笠間良彦著 雄山閣 (昭和40年刊)

「重要刀剣等図譜」公益財団法人 日本美術刀剣保存協会 発行


追補
 ここに幕末に活躍した金工、後藤一乗が使用した腰刀拵があります。笄は付いておりませんが切小尻と長い下緒から腰刀として帯刀されたことが伺われます。では、どのような時に、どのような装束で用いたのでしょうか。法眼のとき、登城に際し直(じき)綴(とつ)を着用しこの腰刀を帯したとおもわれます。

(刀剣博物館蔵)
直(じき)綴(とつ)

法印・法眼が着用。黒色絹製。長袴は白色絹製。
小さ刀を帯す。本来僧位なので剃髪。法眼は中世・近世には医師・画家・金工などにも与えられた。
〔将軍宣下当日と正月元旦・二日に着用〕
終りに
これらの制は、幕府のもので大名・旗本等の幕臣が対象になっています。
つまり江戸城に登城の際や幕府の行事のときのもので、諸藩の城に登城する武士には関係の無いものですので、そこのところをお間違え無きようにお願いいたします。
                     <終>