2022年10月でした。
あれから約一年半
当時の文章を
こちらに残しておこうと思います。
【お父さん、49年間、私のお父さんでいてくれてありがとう。】
2022年10月16日、父が自宅で亡くなりました。
88歳でした。
写真は10/12に、みんなで撮ったもの。
父は、座る体勢を自分では保てないから
私が横からグイッと支えてます。
2018年に小脳梗塞で入院してから4年。
何度かの入退院、月に1度の大学病院への定期通院。
お父さんは、私との通院、楽しんでくれていたのかな~。
きっと頼ってくれていたはず。
2018年に倒れたときに初めて、糖尿病がかなり進行していることを知りました。(絶対家族に迷惑かけたくない!と、糖尿病のこと話してくれてませんでした、なので、あまりの進行にびっくり!)
加えて高血圧で、あちこち血管が動脈硬化で閉塞していて、足の付け根の大動脈なんて10センチもつまってました。
でも、そのつまりをとる処置は糖尿病による腎不全のため造影剤をつかうとすぐ透析になってしまう。本人は絶対透析は嫌!
とのことで、あちこちガタがきている体を抱えながらの自宅で過ごす日々。
足が痛くて大好きなスーパーのお買い物にも行けなくなってしまったけど、認知症もなく、今年の初め頃まで、台所に立つ日もありました。
4月ごろから心不全による喘鳴がぜーはーぜーはー聞かれるようになり、6月ごろから、ベッドに横になれない日がでてきて
8月からは、在宅酸素も入れて、体を起こしてないと苦しいので、ずっと夜も起きたままの体勢でした。
このとき、夜中も対応できるように、お家ナースコールを長女が買ってきてくれたりしました。
夜中に、ピンポーンと鳴るのは、結構な破壊力でした😅
私の仕事も夏ごろから、いつも以上に忙しくなり、父のことを見れない日もあっありすると
「お腹すいたー殺す気かー」なんて言われたりして😅
そんなときは、おっ!食欲あるじゃーん、なんて子どもたちと話したり。
10月に入ると、いよいよ苦しそうで、見かねた往診の先生が何度か入院を勧めると、そのたび
「入院はしない!」
と、はっきり答える父。
父の意思通りにしてあげたいけど、そばで見ている私は、何度も心が 折れそうになり、往診の先生に鎮静のための麻薬の相談をしました。
でも、先生の、「うーん、使うとすぐ呼吸止まってしまうから。」の言葉に、
「そうですよね┅」の、やりとりでした。
10/16は、子どもたち3人家に揃っていたので、私はちょっとおでかけ。
出先から長女に電話をすると、「おじいちゃん、なんか変、息してない」と。
LINEをビデオ電話にして、私から、子どもたちへ、ベッドに横にしてあげるよう指示。
子どもたちから
「おじいちゃん、横にしても、もう、ぜーはー苦しそうにしてないよ。」と。
私が自宅について
横たわっている父をみたら、笑ってる!
穏やかに┅いい顔で。
「お父さん、お父さん、頑張ったね、頑張ったね」
おんおん泣きながら、両手で頭も顔も包んで、もみくちゃにして
「めちゃくちゃいい顔してるじゃん、お父さん、お父さん」と、おんおん泣きました。
そして、往診の先生から死亡診断書をもらうときも泣き、
葬儀屋さんとの打ち合わせのときも、うるっとして
ぼーっとしてしまうから、何かしなくちゃと
お皿を洗えば泣き
物を片付けては泣き
イチローと話せば泣き
方々に連絡して、お悔やみの言葉をもらうだけで涙が溢れました。
でも、それは悲しみの涙というより
勝手にわいてきてしまう魂の涙。
49年一緒にいたから
色々な出来事とか、父の思いとか走馬灯のように、出てきてシンクロします。
イチローは
もらい泣きしながら
もう、この先
こんなに泣くことはきっと無いからたくさん泣いて。
と、言ってくれました。
今日、私がふと落ち込んで
亡くなる前に
もっとあれもこれもしてあげれば良かった
と、言ったら
長女から
病気も、体のあれこれも全部おじいちゃんの魂が選んだこと、おじいちゃん、恥ずかしがり屋だから、色々見せたくなかったんだよ。
落ち込むことは何もないよママは本当によくやってた。
と、言ってくれて
私より大人で、見えない世界のことわかってる!
そうでした!そうでした!
と、人間のドロドロした感情から、気持ちを引き戻してくれました!
わたしのことが大好きすぎて
どの男子を連れてきても
よい顔をしてくれなくて
だいぶ、いざこざあったけど
それも生きているならではです。
そして父の遺影の写真
約25年前の写真です。
看護学校の卒業式のときのもの。
この日、父と新宿新都庁の見学に行きました✨そのあと、父の母校の工学院大学の校舎がビルになって新しくなっていることに父がびっくりしていたら、恩師に会えて更にびっくりした!
なんて場面を思い出します。
いま父は、仏さまへの道3年目
私たちもこの世から
サポートさせていただきます✨