前々回の記事の続きです。

 

内観を意図的に探れるようになってきて、最初に感じたのは自身の身体の歪みでした。

 

当時のテーマは井桁術理の理解とその手解きである正面斬り、柾目返しなどの習得でしたが、甲野先生が指摘されたように身体の捻じれ、つまり、姿勢の歪みがあると技の通りが悪いと直感的にも感じましたので、自身の内観を見ながら姿勢を整えると言うことが、稽古の指標となりました。

 

以来、姿勢を整えると言うことに着目して来ましたが、それに関して何年か前にある整体法の指導者が話されていたことが印象に残っています。

 

その方は

 

”身体はある種の刺激を受けると、その刺激に対応する為、自らを整えようと運動を行う。その働きによって一旦は身体が整うが、再び刺激を受けると、更に細部を整える為に次の運動が出て来る。そうして次々と起こる運動には終わりがない”

 

と仰っていたのですが、私がそれまで十年以上感覚的に探っていたことと同じだなと感じたものです。

 

前々回ブログで”えもいわれぬ違和感”を感じることがあると書きましたが、本来であれば身体を整える為の運動が起こるべき個所の不具合をそう感じていたのかも知れません。

 

私の場合、自らの歪んだ姿勢を運動(稽古)により”整った身体”、つまり、歪みを治す、そしてその正誤は井桁術理の手解きや稽古の進展状況を観て判断したと言うことになります。

 

ちなみに、甲野先生が稽古参加者と交流しつつ内観感覚を次々に拓き技の質を高めているのを見ていると、動作の種類や個別の対応法の発見があると言う以上に基盤となる身体の性能そのものが改善されている様に感じられます。

身体を細部まで整えることが、様々な状況への最大限の対応力を発揮出来する為の身体を練ることに繋がっていると考えています。

 

良くある喩ですが、高さ30センチ程度の平均台の上を歩いたり片足で立つことは出来ても、高さ10mの台の上では同様の動作をするのは難しい。

けれど、もし、その様な状況下でも平時と変わらぬ身体の整い方を維持出来るのであれば、まったく同じとは行かぬもののかなり近い動作を出来るのではないか?

これを”メンタル”の一言で済ますことも可能でしょうけど、私、精神的作用も含め身体的に整った状態を維持することが重要だと考えるようにしています。

 

勿論、では”身体が整った状態とは具体的にどの様な状態なのか?”と言う根本的な疑問は残ります。

それを具体的に定義出来るほどの理解は私にはありませんが、現状は前述にあるように技の通りなどを通してその正誤を判断するようにしています。