小学校高学年
お母さんがまだ30代後半
お母さんは
乳がんになった
その頃は
死と背中合わせな病名
乳がん
当時は抗がん剤も無く
ホルモン剤も無く
あるのは
手術だけ
現代の全摘手術は
胸筋を残す
が
その頃は
胸筋すら全部取って
皮膚も残らず
後日
太ももの皮膚を剥がして
移植手術
が定番の時代
自力で病院には
行けない年頃
and
弟達の世話も担当していたので
結構長い入院中に
数回しか
見舞いに行かせてもらえなかった
点滴を受けている
お母さんを
横で見て
何を話しかけたらいいのかも
わからなかった
当時の点滴は
今みたいなパックでは無く
牛乳瓶を逆さにした様な
状態でぶら下がっていて
液が流れる細いホースの中に
空気の泡があった
空気がそのまま
お母さんの体に入ったら
死ぬんじゃないか
子供心に
それが怖くて
その空気大丈夫?
って聞くと
うん
これは
指で弾くと上に上がって行くから
大丈夫
と
答えたお母さん
当時の告知方法は
本人直接ではなく
本人以外の家族に
当然お父さんなんだが
とても使い道のない人だったので
子供の事より
お母さんの病院に日参した
わけではなく
現実逃避の為
知らないおばさんの家で
ペットの様に
飼われていた
3人兄弟の長女は
子供のまとめ役も兼ねて
弁当作りから
掃除洗濯まで
無言でやった
せめて人数が1人少なくて助かった
昭和の子供って
そんな風だと
思う
ここまでの話だと
私の乳がんは
遺伝性となるのだが
これまた昭和にありがちな
嫁いびりが
父親の妹&母
その2名で遂行され続けていたのを
子供ながらに
よーーーーーく
覚えている
昭和って
そんなの当たり前に
転がっている話だけど
孫に当たる私にまで
おはこは回って来て
とにかくめったやたらに
当たられる毎日を
お母さんと
怯えながら過ごした
お母さんは
何も言わなかった
いつも
何をされても
髪の毛を掴んで
引き摺り回されても
黙っていた
ら
乳がんになった
結局は
ストレス
離婚するなり
逃げ出すなり
すれば
もっと元気に
楽しく
少しでも長く
生きれたのかもしれない
そんな風に思う
父方の2人は100手前まで
長生きされました
本日の報告以上