久しぶりに昔の作家さんの小説を読み終えた。つくづく・・・昔の作家さんの文章は、本当に文筆業と呼ぶに等しい。描写の表現の仕方がまず今の作家さんにはないような気がする。それはイコール今の私にとって読みにくい文体ではあるのだが・・・。
本書は、1950年7月2日未明「国宝・金閣寺」が金閣寺(鹿苑寺:ろくおんじ)の青年僧に放火された事件を基に書かれている。
その青年僧には重度の吃音症があり、それがもとでからかわれ、孤独と闘い、その中で金閣寺の美へ傾倒していく。鹿苑寺の僧侶となってから親しくなった鶴川は事故と片付けられた自殺ですでにこの世にはなく、また親しくなりかけた柏木には不義理を繰り返し、離れていく。さらには期待されていた鹿苑寺の住職は、祇園で女遊びを見かけたために以降ことごとく歯向かっていく。自虐行為を繰り返す。同情の余地がないことはないと分かりつつも、なぜこのように破滅へと向かっていくのか。
金閣寺に放火してからその僧侶は、本著によると「別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った」。とある。常人では分からない大それたことをして初めて、その僧侶は生きたいと思ったのだろうと、三島由紀夫はいう。私には全く理解できない。
事件後、僧侶の母親は息子の仕出かした大事件を苦に自殺している。しかし、本人は刑務所の中で過ごし、退所してから結核で死亡している。その一件までは三島由紀夫は描いていない。あくまでも「生きようと思った」。とまで描いているのは、きっと三島由紀夫には、この僧侶に共感する部分があったのだろうと思う。

本書は、1950年7月2日未明「国宝・金閣寺」が金閣寺(鹿苑寺:ろくおんじ)の青年僧に放火された事件を基に書かれている。
その青年僧には重度の吃音症があり、それがもとでからかわれ、孤独と闘い、その中で金閣寺の美へ傾倒していく。鹿苑寺の僧侶となってから親しくなった鶴川は事故と片付けられた自殺ですでにこの世にはなく、また親しくなりかけた柏木には不義理を繰り返し、離れていく。さらには期待されていた鹿苑寺の住職は、祇園で女遊びを見かけたために以降ことごとく歯向かっていく。自虐行為を繰り返す。同情の余地がないことはないと分かりつつも、なぜこのように破滅へと向かっていくのか。
金閣寺に放火してからその僧侶は、本著によると「別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った」。とある。常人では分からない大それたことをして初めて、その僧侶は生きたいと思ったのだろうと、三島由紀夫はいう。私には全く理解できない。
事件後、僧侶の母親は息子の仕出かした大事件を苦に自殺している。しかし、本人は刑務所の中で過ごし、退所してから結核で死亡している。その一件までは三島由紀夫は描いていない。あくまでも「生きようと思った」。とまで描いているのは、きっと三島由紀夫には、この僧侶に共感する部分があったのだろうと思う。
