養老孟司の「バカの壁」から引用
「知るということは、根本的に癌の告知だ」
「癌になり、余命半年の命となったとき、あそこに咲いている桜が違って見えるだろ」
とても分かりやすい表現と思って載せました!
きっと今まで気にもしなかった桜が、余命宣告によって今までとは別の物に見える
そして今までどういう思いで桜を見てきたか考えても、なかなか思い出せない
桜が変わったのか?
違いますよね
自分が変わったのです
そしてこれが「知る」ということ
知るということは、自分がガラっと変わり、世界がまったく変わってしまう。見え方が変わってしまう
患者さんも、動き方を知らないから、少しでも楽な動き方を教えるために、運動学習をすると思います
患者さんも、動き方を知ったときには、新しい自分になっているのですね!今までとは違った世界を経験している
そりゃー
出てくる言葉も変化しますよね
言葉が変化しないのはきっと本当の意味で変わったのか?
知るということは、自分が変わること
自分が変わったことが知らなければ、言葉も変わりません
つまり、PTが変わったと感じ、それによって患者も変わったんかな?先生が言うならそうなんだろう、という認識になって、自分がどう変わったのか自分で分からない状況をつくってしまう
(もちろん、先生の言葉によって、なんとなく変わったことがあいまいな患者さんが、確かにそうだなーと変わったことを知れれば、別にそれはとても良い事だと思います!)
つまり患者さんが自身の変化に気付くかどうか?それをPTの手助けによって気付けばいいのです
PTの手助けなしで、気付ける方は申し分ない、優秀な患者さんということになります
自分の何が変わったのか?
楽に動けるようになったのか?力が入りやすくなったのか?少しでも手が動くようになったのか?トイレがしやすいようになったのか?歩くことに気をつかわなくなったのか?痛みが少しでもひいたことが実感できたのか?
患者さんとともに、自分も変わっていきたいと思います☆