四月六日
ぼんやりとした感覚で線路沿いの道を歩いた。金網の奥の雑草を見ていて、あ、なでしこ、と彼は言った。それは、美しい女が彼に言ったのと同一の言葉だった。いま隣にいる女は、聞かないふりをした。子供じみてると思いながら、彼は今度は指をさして、なでしこ、と言った。あれが、そうなの?どこにでも咲いちゃうのねえ。薄桃色の花に、風が生ぬるかった。
改札口まで女は付いてきた。訳もなく笑っていられるその顔は生命力に充ち満ちていて、いつまでもどこまでも喰い足りなそうに見えた。構内に巣食った鳩の羽ばたきがその顔の上で狂気の影を作った。彼は眼を細め、そして逸らした。
列車はすぐに来た。埃ばかり漂っていて、昼間の列車はすいていた。座席に身をもたせかけて、彼は先刻の金網が窓の向こうを流れていくのを見ていた。特急列車が視界を遮った。彼はその先に、あの女の一人で歩いて帰る姿を見たような気がした。
彼はその幻が、女ではなく彼自身であることを知っていた。茶番劇を真剣に演じる出来そこないの自分、そんな事にはすっかり気付いていたが、その時彼は何の感情をも産み出しえない一個の肉体に過ぎなかった。
「Die Wunde!Die Wunde!」と彼は呟いていた。