前回、私は【謝罪の表明】をしました
かつて自分の犯した愚行について、今さらであってもおふたりに対して改めてきちんとお詫び申すのが筋だと考えたからです
ただ謝罪において、私は『仲直り』『和解』というものをあえて求めてはいません
けじめをつけるひとつの区切りとして、
これまで『甘ったれ』てた自分にとっても、そしておふたりにとっても、これからは互いに干渉しあうことなく、それぞれのみちを各々歩むのがbetter…といったニュアンスを込めたものです
もう何年前のことでしょうか
以前、私は拗れたBloggerへ仲直りを求めた謝罪をしたことがあります
Aさんのフォロワーでなかった私は、憤慨なさってることにまったく気づきもしませんでした
気づいた時にはかなり月日が経っていました
そのため、溝もより深まってたかと思われますが、当時の私は私なりに努力をした、ううん…今となってみては、努力したつもり…
次第に、なんだか違うって違和感を感じはじめたんです
なんて言いましょうか、【謝ったのだから許してちょうだい】みたいな気持ちが強く、ただのひとりよがり?!であったかと。
うまく言い表せないのだけど、かなり白々しかったかと。
私にとって今に至るための『経験』『教訓』であったと、当時を振り返りながら思います
謝罪について、今、私はいろいろ考えることありますが、そのひとつに
【謝罪した者が敗者で謝罪を受けた者が勝者ということではない】ってことです
『主張はきちんとしなさい。(それが礼儀だから)。でいて、常に謙虚であるように』
日米を行き来しながらも、ほとんどをアメリカで過ごした私は、両親をはじめ祖父母や周りの大人たちからそのように育てられました
そんな私には【謙虚になるということは、ただおとなしく自分の主張を殺すということではない】といった概念があります
自分のポリシーを揺るがすことなく大切に持ち続けることが自分らしさであり、それを他と認め合えることで初めて他をも尊重できるものだと考えてます
国と国との戦争においては謝罪(降伏)したら敗戦国となってしまいますよね
けれど人間関係においては決してそうじゃないと思います
なぜなら、たまにする夫婦喧嘩や子どものころ頻繁にしてた兄妹喧嘩で、私が謝ることが多くても、ライムや兄も私に謝ることだってたくさんあるからです
だからといって、あとに引くこともありません
なので、たとえケンカが勝負であったとしても、謝罪することが勝負における敗北だとは思ってません
年齢差にはかなわない?!
Umm…そうなのでしょうか?
確かに年輩者は長年生きてこられたぶん、若年者より経験を積まれてるでしょう
けれど、年輩者が経験してない経験をされてる若年者も大勢おられます
年齢の高い者が優れ正しいのかといったら、必ずしもそんなことはなく、知識も経験も浅い若年者から年輩者が与えられてるものや諭される事だって、またとても多いはずです
アメリカのGrandpaが私に告げた『ありがとう(*^ー゚)👍』には、私や兄の存在によって、自らの半生で抱いていた誤りを省みれ、愚かさを諭れたことがいかに大きいものであったか…それにおける感謝と敬愛であったと私自身は解釈し、これはGrandpaの謙虚さだと私は感じているからです
もちろん、その解釈は人それぞれですが、たまたま兄もGrandmaも、そしてアメリカの親類もみな、私と同じように感じてるようです
それでいて、私は4人の子育てを経験しながら、やはり子どもたちから日々与えてもらえることがたくさんあることを痛感しています
大人ひとりじゃ到底出来ないことでも、子どもと一緒だからこそ出来ることがたくさんありますし…
幾度かちょこっと英会話blogにおいて綴ってきた子どもたちとのエピソード
私は彼らによって『ありがとう。親として、あなた方に日々成長させてもらえてます』という気持ち…
決して男性の3歩後ろを歩く大和撫子タイプとはとてもじゃないけど言い難い私ですが、このような慎ましい行為はもちろん、こういった気持ちもまた【謙虚】だと思ってます
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先日、葉室隣さんの著書『銀漢の賦』をすすめてくれたブロ友のtopzemiさんへ私はこうコメントしました
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幼なじみの源五と将監は、剣の道場でも一緒でしたね…常に共にいたふたりが、大人になって出世していく将監とヒラのままの源五といった立場の違いなどから、だんだんとズレてきますでしょ
波長が合わなくなり、溝がうまれ噛み合わなくなったしまう…
外野からみたら、とてももどかしい気がしますが、本人たちにしてみたら、互いに生きてるのだから当然なのですよね
ずっとそのまま…というケースもあれば、ふたりのように長い年月の確執のさなか再び手を取り合うことができるといったケースも当然あるでしょう
読者の間や世間の声では、その脈絡のなさこそが『男の友情』だと評価されておりましたし、幼なじみで気心わかりあってるからだといった見解もたくさんみられたようが、私は『男の友情』というより『真の友情』と解釈してます
男同士でなくたって、女同士であっても男女であっても、こういった友情ありますもの
また幼なじみであろうとなかろうと、わかりあえる人とはわかりあえ、わかりあえない人とはわかりあうことなどできないものだと率直に感じながら、なんともいえぬ清々しい爽快感に包まれたのです
(略)
覚悟、潔さ、他への心づかい
それらを追求し続けた作家だったのでしょうね
決して男性だけでなく女性に対しても…
『人』として生きる道として…
ところで、私は、源五と将監
ふたりの間に交わされた新渡戸稲造氏でいう【義】に心打たれたのです
『花の美しさは形にありますが、人の美しさは覚悟と心映えではないでしょうか』
千鶴のこの言葉から、私は幾人かのかつての友人が思い浮かぶのです
彼らは決してそこから逃げたわけではなく、己の信念を守り貫き使命をもってたたかい続け、そして散っていった戦士でした
花は鋏を入れることで、そこに新たな花芽をつけたり葉をつけたり…そうやって美しくなるものです
人もそんな花とどこか似ている…私はそう感じてます🌸
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そういえば今日、私用で国立へ出掛けてきました
道を歩いていると、一輪の薔薇が蕾を膨らませている姿が目にとまりました