日本で過ごした夏
私にとって、忘れられないひと夏があります
ZEPETOでひそかにハクと千尋になってみました
🍉を頬張りながら、夏をナツかしむ…
これからこの画像つかって投稿するつもり、その前にAmebaのみなさんへお披露目

私は九州・長崎へはこれまで3度訪れたことがあります。
初めて訪れたのは、高校1年生の夏休みで、このとき、私たち家族はアメリカへ帰国することになってたので、日本で過ごす最後の夏休みを有意義なものにしたいと考えていた私は、友人らとさまざまな企画を立てたです。
そのひとつが、まずこちら…

とても不思議な出来事でした。
夢でも幻覚でもない。その後も不思議な体験をすることありながらも、魂?幽霊?というものを肉眼でハッキリみたのは、このときが最初で最後であったかと思います。
不思議な体験を綴ったこのblogでも打ち明けたとおり、私は高校受験をして入学したその高校で知り合って仲良くなった友人Yの田舎である長崎を、この夏休みに初めて訪れることになった。
キッカケは他愛もない友人との会話からでした。

『夏休みはたいてい家族で田舎に帰ってお盆を過ごすの。それを日本では帰省(キセイ)というのよ』

私は【田舎に帰る】という言葉を、以前からも日本でよく耳にしてました。
田舎といえば…田んぼが広がり、山がそびえ、綺麗な水が流れる川には魚が泳ぎ、人が少なく静かで、空気が清々しい…まるで絵に描いたような、のどかな光景を思い描きながら、私のなかで田舎に憧れる気持ちがどんどん膨らんでゆきます。
帰宅して、私はすぐに両親に尋ねました。
🍋『友だちはみんなよく、田舎にかえるって言うけど、私の田舎ってどこ?』
するとDadは
『そう言われてみれば、どこだろな?ここ横浜か?それとも東京かな?いや、ニューヨークかも?(^^;』
🍋『…どこも、田舎のイメージとズレるわ(^^;』
するとMomは
『あら、東京は田舎とは言わないのよ。れもんには故郷はあっても田舎はないのね。まぁ、そういう人も大勢いるわ(^^;』
ガーンガーンガーン
私には田舎がない?!
😨😨😨
それからというものの
『田舎にかえる』
そう口にする友人たちのことが、当時の私は羨ましくてたまらなかったの。
似たような言葉、でも微妙なニュアンスの違いある。
田舎もなければ、今となってはもう実家もない私には、どちらもつかうことない日本語に違いありませんが😅
そんな私てすが、かつて
👩Y『れもん!アメリカへ帰る前に、私の田舎に一緒にかえらない?』
🍋『え?!おじゃましちゃっていいの?』
👩Y『うん!長崎の親戚にれもんの話をしたら、ぜひ貴女に会ってみたいって言ってるんだよ(^ー^)』
🍋『わぉ!ホントに?うれしい!行きたい!ぜひおじゃましたいよー!』
棚からぼた餅とはこういうことをいうのだと、このとき、思いました。思いがけない話に、私は嬉しくて有頂天になり、帰宅すると真っ先に両親の承諾を得たのです。そして、すぐさま身支度を整えました。
忘れもしません。
長崎はかつての戦争で原爆の被害にあった都市です。
Yのお祖父さまは出兵し、お祖母さまは福岡での空爆を幾度か経験され、白杖をついていました。
おふたりとも自ら戦時中の体験話を後世の人々に伝えることをやっていて、私にも話を聞かせてくれました。
私が中学1年生のとき、初めて迎えた日本での夏休みの課題で、祖父に戦争の体験談を聞いたことがあります。
そのときのことを思い返しながら。

このとき、私は課題をこなすために私から祖父に戦争の話をしてもらうようにお願いすることに対して躊躇いがあったです。なぜなら、祖父の辛い思い出を掘り起こしてしまうことがイヤだったから。
けれど、おふたりに対してはそういった躊躇いを感じなかった。
それは、丁寧に長崎の町のことをガイド、教えてくれながら、戦争の話も交えながら、話してくれたからでした。特にYのお祖母さまの視力は今はなくても、当時のことは深く目の奥にやきついておられるようで、誰かに話をして聞いてもらうコミュニケーションを交わすことが彼女にとっての生き甲斐となっているような、その力強く生きておられる姿を、ひしひしと感じられたから。そして
『ミチさんのお話も聞かれると良いよ』
ご近所に住まわれてるミチさんという女性がおり、彼女のことを紹介してくれたのです。ミチさんは長崎での原爆で被爆をし家のなかにいたため生き延びれたが、お母さまとお姉さまは庭にいたため全身やけどを負った状態で熱風に飛ばされ、そのまま亡くなってしまったのだそうです。そのとき、ミチさんも亡くなったお姉さまも小学生だったそうです。
3年4か月間を日本で過ごし、心通わせられる一生涯の友だちが日本にも出来たというのに、私はこれからアメリカへ帰らなければいけないもどかしさが、少なからずあった。それだけに、なんとも後ろ髪をひかれるような思い・余韻がありました。
ミチさんは、こう仰有いました。
戦後しばらく、日本の国は原爆被爆者のことやその実態をなかなか公にしたがらなかった。原爆被爆者として社会のなかで公に認められるようになるまで7年以上もの年月がかかったのだそうです。その間は、生き延びれたもののずっと後遺症とヘイトに苦しみながら、この世を去ってしまった被爆者の方々が大勢おられたのだといいます。
だからミチさんは自分が被爆者であることをずっと隠しつづけながら、ひっそりと生きていたのだと。けれど長崎県出身というだけで被爆者だといった先入観でもって、心ない人から差別を受けたこともあった。そのほかもいろいろな話…
心身ともに辛い胸中を、初対面である私にも語ってくださったのです。そうすることで、当時のことや募る思いを後世へ語り継ぐことで、必死にご自身を癒して奮い立たせてこられたのでしよう。そのことを私は生涯忘れてはならない…決して忘れることない夏の思い出として心に刻まれてます。
感謝であり、またとても悲しい事実でもあります。
涙なくしてはいられません。そんななか、ミチさんは最後に
『被爆し苦しんだ人は私たちだけではありません。アメリカ兵士のなかにもおられましてね。恐ろしいものですが、人間は敵も味方もない同胞だと、私は感じておりますの…』
そう静かに仰有ったです
そう。アメリカ政府もなかなか公にはしてきませんでしたが、当時のアメリカ兵士も幾人か原爆によって被爆された人々がいたことをミチさんはご存知で、彼らのことをとても気にかけておられたのです。
このとき、私は、溢れおちる涙を抑えることができませんでした。

戦争末期、当時のアメリカ兵士たち(grandpa含めた退役軍人の方々)のなかには、自らの志願ではなく徴兵も行われmilitaryとなり戦地へ出向いた人もいたといわれています。
いつまでも終わらない戦争だったからです。
ポツダム宣言を幾度と黙殺しつづけながら、戦い続けようとしている日本軍に対しての苛立ち、これ以上犠牲者を出したくはない、早く戦争を終わらせたいといったmilitaryらの思いが当然強くなか、アメリカは廣島と長崎への2発の原爆投下をしたという説があります。
私はそれについて異議あります。けれど臨機応変として、アメリカで退役軍人の方々を前にしては、あえてその説を否定する気はないのです。
かつて過去blogにもつづりましたが、私は幼い頃に彼らの前で大泣きしながら抗議したことがありました。誰もそんな私のことを咎めたり、また慰めるようなこともせず、言わせておこう、泣かせておこうといったように黙認するかのように、みてました。私の気持ちを汲んでくれていたからです。
私は今こうして大人になってみて、当時のことを思い返しながら、そのような環境のもとで育ってこれたことに対して深く感謝をしつつ、あの当時の自分自身を省みつつ、せめてもの恩返しの思いです。
かといって当然、肯定する気もさらさらありません。
ポツダム宣言を日本へ出す以前、1945年4月あたりから、原爆投下計画がなされていたことは明らかなこと。すでにいくつかの大都市が投下候補に挙げられており、横浜、京都、新潟etc…これらの都市はかつての広島、長崎と同じように、空襲の被害がほとんどなかったのは、原子爆弾の破壊力がどれほどのものかをわかりやすく試すためだったからだ。
日本の重要文化都市である京都への投下はさすがにマズいのでは?といった意見もあったなか、べつに構わないといった意見もあって、米軍のなかでも意見がふたつに分かれていたことなどが文献にのこされてるからです。
私が友人Yのご厚意に甘え、かえった田舎・長崎は、坂が多くて、とてものどかな都市でした。
路面電車が走っていて、どことなく鎌倉を思わせるような町でした。
平和記念公園、原爆資料館
当時の人々の遺品や、針が折れ曲がった状態で投下時刻を差したまま止まってしまった時計、そして被害にあった人たちの写真などが展示されており、思わず息を呑みました。

『なぜアメリカはここまで酷いことを日本にしたの?』
考えるだけで、ぞっとし気分が悪くなります。アメリカ人ならば、誰もが罪悪感に苛まれてしまうことでしょう。こんなことをする国で誕生した自分を悲しくネガティブに感じてしまう時も、これまでにありました。
けれど、私はあのときの戦争を生きてません、それでいてDadが好き、Grandpaも好き、アメリカの親戚や友人のことが好き、だからもうやめたのです。
それは、原爆を投下したアメリカに対してはもちろんですが、日本に対しても同じです。
廣島へ原爆投下した時に当時の大統領トルーマンが世界へ向けて、日本へ原爆を使用したことを公表し,た。
なのに、旧日本軍のトップらは
『これは原爆ではない』
そう言ってなかなか原子爆弾であることを認めようとせず、しばらく否定し続けていたというではありませんか
投下したアメリカ機長は狙いを定めたポイントに投下したけれど、そのあとの光景を恐ろしさのあまり目にすることが出来なかったと言っている。
大きな危害を被り、広島の人々が苦しんでいるというのに
なぜ?!どうして認めようとしないのか?!
なぜ?!どうしてまだ戦おうとしたのか?!
当時のアメリカは、廣島へ原爆投下しても降伏しない日本にイライラしてたのは、確かなことです。
それは退役軍人の方々からも聞いたことあるから。
某日本人の捕虜が
『早く戦争が終わってほしい。けれど1発では足りない。もう1発撃ち込まないと、きっと日本はまだ降伏しない』
恐ろしくも信じがたい、このような言葉をもらしたという事実。
昭和天皇は側近の意見に合わせ降伏を決意してたというのに、旧日本軍のトップらの反対。そのまま降伏のタイミングを逃し、戦争を続け、アメリカによる原爆投下、そして、あてにしてた旧ソ連の裏切り(参戦)にあうというカタチになってしまったこと。
それらが重なったため、ようやく日本はポツダム宣言を受託して降伏を決意したといわれていますが、私は言葉を失います。
私はまだ生まれていませんでしたし、この時代を生きていませんが、当時を生きてこられた人たちがアメリカにも日本にもいます。そんな彼らから聞かせてもらえた話、そしてかつてblogに載せたとおり、衝撃的すぎるトルーマン大統領や天皇陛下の戦後の言葉…
まさか?!
なぜ?!
ありえない!信じられないし、信じたくもない!
本当に悲しくもいたたまれない思いが募ります。
8月終わり迎えるこのときになるたび、思い出すのです。


P.S: バタバタしてますが、私は元気でいます🌸
さちちゃん、前blogへコメントありがとう
お返事待っててね
みなさんのところへも、順次おじゃまさせていただきますので、待っていてください🌱