【無方庵余滴(続)茫茫記】十牛図第十則「①入鄽垂手の序」(2024、06、28)
【本文の序】
第十鄽(てん)に入り手を垂る (序)慈恩和尚
柴門独り掩(おお)うて、千聖も知らず。
自己の風光を埋(うず)めて、前賢の途轍(とてつ)に負(そむ)く。
瓢(ひさご)を提(さ)げて市(まち)に入り、杖を策(つ)いて家に還る。
酒肆(しゅし)魚行(ぎょこう)、化(け)して成仏せしむ。
第十 町に出掛け手を垂れる (第十に至って成就できたことになる。)
△ひっそりと柴の戸を閉ざしていて、どんな聖者もその内部を知ることはできぬ。
鄽は町お店、十字街頭に出て働き行く。第八の真空無相の処にどん坐ってこれで良いと言う事では無い。
ここからさらに一歩踏み出して、人々の間に入って自分の得たものを示していく、これが大事だ。
ここまで至ってお悟りを得た事になる。町に出かけて行って手を垂れる衆生済度する。
上求菩提下化衆生、四弘誓願(衆生無辺誓願度…)衆生済度、ここまで行って入鄽垂手と言う事になる。
四句誓願を嚙み砕いて実践していく、和光同塵、人々の処に入って行くけれど決してその光を失うことは無い。
「君子は和して同ぜず小人は同じて和せず」。無我の我に生きる。自分のない処の自分に生きる、
無念無相、それも結局、無念の念、無相の相の処。
粗末な草庵の戸を閉めて、どんな聖人や聖者もそこに居る住人・人物の境界を知ることは出来ない。
どんな聖者にも伺い知れないものを持っている。言うまでも無く『これ見よがし』と見せてはいない。
しっかりとしたものを持っている。しかも表に見せない。千聖も伺い知れない、その境界はその人だけのものだ。
只ぶらっと手をぶら下げて何もしないというわけではない。そこにはキラッと光るものがある、だがそれを見せない、
けれどもそれを漂わせている。それを伺い知ることは出来ない、それはその住人、その人だけのものだ。
△自分自身の風光・風格を埋めてしまい隠している、自己の風光・輝きを表に見せない。
俺は終わったんだというもの、そんなものは遠い昔に捨ててしまっている。
前賢の途轍(足跡)、先徳の昔の祖師方の歩いた道そのままを拒否して、同じ道を行くことをしない。
その人の境界はその人のもの、それはその人がなし得て来た境界。自分の境界とは違う。
風光を埋めて和光同塵。先人の歩いた道を歩くこともない。自由自在あるがままに生きていく。
何も何も執着するものは無い。その生き方というものは誰も伺い知ることは出来ない。
それはそれ、その人だけの生き方。人の真似をして生きているわけでは無い。
△徳利をぶら下げて朝、町にゆき、杖をついて隠れ家に帰るだけで、酒肆魚行し、感化して成仏させるのである。
瓢箪の徳利ぶら下げて・・・家に帰って来る。隠者の生活というものは、ひっそり自己の輝きを消して、
先者にの歩いた道を歩くことも無く、ただ徳利をぶら下げて町にゆき、杖をついて隠れ家に帰るだけで、
何か特別の事をやるわけでも無いように見えるが、それだけのように見えるけれども、
無為無我の境界、その姿が人々を済度する境界に繋がって行く。第十図は布袋様のそういう境界を示している。
布袋和尚の姿は人をして成仏せしめる。酒肆魚行の俗の世間を感化して成仏せしめる、仏の世界に変えている。
仏の世界に生きているのだから、何か特別な事をしているわけでない、こうだああだと説明するわけではないが、
きちんと仏の世界を示している。その姿、態度、言葉に自然に感化して人をして成仏させるのてしまう、そういう働きがある。
それは成仏させてやるという事では無い。そんなものは遠の昔に捨ててしまっている。
その生き方というものが、見る人をして成仏させてしまうことになる。
第八図の空の世界に留まることも無く、そこから第九返本還源の世界、本源の世界に立ち還る、そしてさらに第十入鄽垂手。
何か特別な話をするわけでもない、特別な事を何もしなくても、その境界に自分が到って初めて成仏出来るのだ。
無為にして化す。【直指人心見性成仏、功匠跡を留めず、「露」(天下皆知る)】
行住坐臥、着衣喫飯その姿が、仏道を表していて、仏の世界に立ち入らさせてくれる。その姿が仏そのものである。
為人度生、衆生済度。和光同塵、灰頭土面、十字街頭にすっと溶け込み自由自在に働いている、何もこだわるものは無い。けれども決してその光を失わない。(君子は和して同ぜず小人は同じて和せず。)
真空無相の空の世界に留まっていては、外の世界は見えない。けれども外の世界は自由自在に動き回っている。
衆生済度するに、円相の中にい居ては外の景色は見えない。
そこから一歩踏み出して返本還源、外の景色に踏み込む、踏み出して世間の景色の中に踏み込む、
そこからさらに一歩踏み出して第十入鄽垂手。
庵中の景色が、入鄽垂手に到って庵外の景色となって解放される。これが『大事了畢』と言う事になる。
『水月の道場に坐し、空華の萬行を修す』(禅林句集p258)という言葉で締め括られる。
出家でありながら、生臭い処にも平気で入って行く。どんな処に行っても皆を衆生を成仏させる。
その場の雰囲気に飲み込まれる訳では無い。かえってその場に居るものを仏の世界に誘い込んでくれる。
これが『無位の真人』の働きというものだ。
こういうした生き方が出来る『大乗菩薩』でなければ本当の悟りとは言えない。
四句誓願文の言う仏道無上誓願度の誓いを成し遂げるというなら、必ずそこに行くという強い信念を持って行かないと、
これはなかなか第十入鄽垂手と言う処まで辿り着くのは容易では無いぞ!
辿り着いたところで何だ、何か変わったところは無い。・・・ここに誰かいる、その老人は何者だ。
「柴門独り掩(おお)うて、千聖も知らず。自己の風光を埋めて、前賢の途轍に負(そむ)く。
瓢(ひさご)を提(さ)げて市(まち)に入り、杖を策(つ)いて家に還る。酒肆魚行、化(け)して成仏せしむ。」
その老人はそういう境界を持っていて、そうした雰囲気を漂せている。
【無方庵余滴】
▲俊鳥林に栖(す)まず、活龍水に滞(とどこお)らず。(禅林句集p265)
(一枚悟りに止まらず差別の世界へ出て行け。)
▲巧匠跡を留めず(禅林句集p86)
(達人は無心ゆえ、行じて行相が無い。)