【無方庵余滴(続)茫茫記】原点その3「宗旨・みんなのもの」(追補再々録)(2024、05、17)


「みんなのもの」の世界は、

我がものなしに腰かけては分からないのである。

 

この我がものなしに、何年か何十年を一気になってかかっているうちに、

必ずみんなのものの世界に選びとられる事に、欲と心は洗い清められるに、
人間と物、物と人間の毎日に、

「みんなのもの」と昔の昔から、成っていたをいつかは知らされる。

 

最も心すべき事を書くが、一切我がものなしの他力に(仏教トイウ土俵ノ上デハ)、
なぜ人は戸惑うのか。

この事は物の欲ではない。物の欲を要らなくなってから、

我がものなしはあるのである。

 

この事に人間は必ず戸締りのない人間に

させられるのである。

この知恵の欲でこれでよしと終る人も居るし、

是を破って「みんなのもの」までゆける人もあるのよ。

 

【余滴】

「一切衆生!済度仏性」・・・【一切衆生】は誰のものでも在りません【みんなのもの】です。
●【一切衆生、仏心懺悔、済度成仏。】「みんなのもの」と、戴いていこうじゃないか。

●【直指人心見性成仏、功匠跡を留めず、「露」(天下皆知る)】…大乗菩薩

 

【参考1】腰掛けないで、進一歩。

▲有佛の処住することを得ず、無佛の処急に須らく走過すべし。(碧眼九五)

有佛とは悟った世界を描いている、そんな処に腰を据えたら駄目だ。

無佛とは向上の死漢だ。枯木寒岩は、人を教化しないぞ。すなわち一体三宝だ。
真理は人を教化しないよ。現前、住持の三宝あって、ほじめて一体三宝が光を放つのだ。

だから拖泥帯水(だでいたいすい、とは泥水を引っ張る、引きずる)がなければならぬ。

それがないと門前草深きこと一丈。誰も来ないぞ。
祖師(達摩)が面壁して、草深きこと一丈を見せたのは、既にこれ拖泥帯水だ。

▲截流(せつる)の機有りと雖も、且つ隋波の意無し。(眼目)(禅林句集p308)
(見性の眼は出来たのあるが、衆生済度に出る意のない聲聞の徒ではだめだ。→灰頭土面)

●一切衆生!(一切衆生に奉仕、自利・利他、慈悲。上求菩提‐下化衆生)

 

●包むは人知の世界、包まれては向こう様のおはからい。
包むまでは努力で行けるが、
包まれては人の力も、精進も介在せぬ。
唯言わぬに日、活きる人のみ知る言わぬでよい世界、
人は心に流れて!

 

●根が切れていれば、どんな場合でも明るいよ。逆に根が付いていては、常に暗いよ。

人生の明暗はこの根が切れているか、付いているかの心のことに。


 【参考2】我がものなし、無情説法。

▲草木国土‐悉皆成仏(草木国土(そうもくこくど‐しっかいじょうぶつ)、

不可説、不可得。あるのは元よりこの事実のみ。
 

▲萬物の根源と為り、天地の太祖と作(な)る。(禅林句集p297、242)
(真如法性の当体は是の如し。)

 

▲無説無聞是れ真の般若。(禅林句集p236)
(真の般若、悟りの智慧は一 切を超越するが故に。)
 

▲渓声は更(すなは)ち是れ広長舌、山色豈(あに)清浄心に非(あら)ざらんや。(禅林句集p339)

(渓川の響きが如来の説法、山の色が佛の妙色身)


 【参考3】超俗脱塵の生活。
▲十年帰ることを得ざれば、来時の道を忘却す。(寒山)(禅林句集p265)
(長年修行して悟ったら、その悟りも忘れてしまえ。跡形を残さない、臭みを失くす。)
 

▲獨坐幽篁(こう)の裡(うち)、弾琴(だんきん)復(また)張繍(ちょうしゅう)(唐詩)(禅林句集p279)

(無為の閑道人が「松老い雲閑なり」の妙境を楽しむ様子。廣然自適、悠々自適と違い世人の知る処ではない。)