【無方庵余滴(続)茫茫記】原点その1「空の城主になる」(追補再々録)(2024、05、03)  

 空という文字を知っただけでも、大きな意味をもつ。
さらに一歩踏み込んで、空の城へと歩みを進めることになる。
このことは至難のことらしいが、この文字を知ったら必ず空の城は、
人の心を吸引する空となるのだ。
 空の城は築けないものだと、現代人は信じているようだが、それは当然である。
人の生まれながらの知恵というものは、形で証明されたことでなければ、
すべて認められないようになっているのだから、空の城など夢にも見ることはない。
 人々よ世人よ、一日も早く空の城の城主になることを。
世の騒がしいあらゆる出来事は、
一切空の城が責任を取って我等人類を救うのである。
 この事は知ったに知らぬに拘わらず、
空の城の絶対性はあらゆる事も平和に、
公平に、人類を幸せに至らしめるのだ。
無限のこの力は、この空の城の外にはない。  
救世主という文字は使いたくないが、
空の城は世界人類の救世主である。
疑うことはいらないのだ。  
空の城は侵されることはない。
この世の存する限り実在する。架空の哲学ではない。
さらには空の城は形はいらない。空は魂にして実在すれど、
空なれば人為性の必要はいらないのだ。
実に易にして天地を覆い尽くしている。  
 人間の一生は、この空の城主にあるのだ。
人間、生を頂いてのご恩返しは、
この空の築城に喜悦し、すべてを捧げることのようだ。

【参考文献】「化城」、柳田聖山「禅の遺偈」より 化城というのは、
 幻術で現じ出された町の意味である。
 人煙もなく緑も絶えた万里の砂漠を旅する隊商が、いつか道に迷って途方に暮れ、
全員完全に望みを失って、もはや既に死あるのみとなった。
 

その時、その隊長が一計を案じて、前方に都城の姿を現出して、
今にも町に入って休息できると言って人々を励ましたので、
疲労困憊していた人々が、再び元気を回復し、無事砂漠を乗り越えて目的地に着くことが出来た。
 

この事は、無限の時空に望みを絶した人々の、生きてゆく道を説くものである。
 化城は単なる幻術ではなくて、その時と場所において、
もっとも切実に人々の五官に訴えるだけの力を備えた実在であった。
 

それは、今日の我々が物理的に実証し得るもの以上に、より具体的な事実であった。
問題はそれを受け取る者の側にあるのだ。
 柳田聖山、「禅の遺偈」-十劫坐道場ーより

【無方庵余滴】
 ●化城、その実像は必ずしも人の目に見えるものではないないかもしれないが、

それは確かに存在している。全て、受け取る側の、この身にあり。

 

●人智の知る事にあらず!。▲空も、無も、仏心も信じられる人には実在する。


▲百不知、百不會(ひゃくふち、ひゃくふえ)全く知解情識を淨盡した境界を云う。知らざる最も親し。(禅林句集p145)
 

【参考1】

7/21朝の円覚寺横田南嶺管長日記の抜粋をご紹介致します。
これが「無我」の教えであり、空の教えでもあります。

 先日花園大学で講義をした折には、トンネルの喩えを示しました。
トンネルを描いてみてくださいというと、まず地面を描いて、それから丸い壁を描いて、その上に「何々隧道」という看板を描いて、山を描いたりします。
それで確かにトンネルに見えます。
 しかし、地面も壁も、山もどれも実はトンネルではありません。
トンネルのまわりに過ぎないのです。トンネルの本質は空っぽの状態にあるのです。

 そして空っぽだからこそ、自由に人や車が出入りできるのです。
自己はトンネルのようなものだというのであります。
五蘊という要素から成り立ちますが、その本質は空っぽなのであります。
 そしてその空は単なるむなしいことではなく、空からは自由が生まれます。
妙心寺の管長も務められた倉内松堂師は、無尽蔵と題して、

無心にはたらく人の 輝き
邪気のない人のすがすがしさ
戦わない人の 安らぎ
勝ち負けのない人の 強さ
思い込みのない人の 正しさ
野心のない人の 静けさ
幻想のない人の 爽やかさ
こだわりのない人の おおらかさ
とらわれのない人の 大きさ
なにもない人の 豊かさ
   
と説かれました。
こだわりのない人の大らかさというものもあるものです。
そして何もないからこそ豊かであるというのが空の教えであります。

【参考2】
▲従来の「本来無一物」は全否定的表現、「本来無の一物」は全肯定的表現。(余語翠厳老師)
 

▲無の眼耳鼻舌身意あり、無の色声香味触法あり(余語翠厳老師)

 

【参考3】
「有の見、山の如きはまだいい、空見(断見の見)はいかん」と、
古人も言っている。空(くう)についたらいかんのじゃ。
(朝比奈宗源老師)

 

【参考4】

道元は如淨の、「風鈴は全身口に似て虚空に掛かれり」との法語を掲げ、

講経は必ず虚空をもって行うのである・・・

虚空でもって思惟を実現するのであり、思惟を超えたところを実現するのである。・・・

仏となり、祖となるのも、同様にして虚空でないことがあろうか。と結んでいる。

 

【参考5】

親鸞が、【信心の定まるとき】は、そのまま往生が定まるので、

終を待ち、阿弥陀仏の来迎を待つ必要がない。かえって臨終の善悪を論ずることを誤りでさえある。

信心の定まったその姿そのままが、かけがえのない無価(むげ)の世界に往生している姿である。