【無方庵余滴(続)余燼(よじん)雑話】「禅から華厳経へ」鈴木大拙著(2024、03、01)

 

 仰山慧寂の説教に次の如きものがある。「お前らはみなそれぞれの光を回して内を見なさい、

私の言葉を覚え込もうなどするな。お前方は無始劫来、自己の光に背を向け、闇の中に身を投げ込んでいる。

妄想の根は深く手引き抜くことは中々難しい。・・・・・・」

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師は続けて言った。「探し出され求められれば、ものの交易も行われるが、

探し出すこともなく求めることも無ければ、何の交易も無いわけだ。

 

若し私が純粋の形での禅を説けば、どれだけ私について来たいと思っても、

一人も私に付いては来られないのだ、況や五百七百の衆がどうして付いてこられよう。

 

しかし、私があれこれと饒舌ると、みな私の部屋に集まってきて、争い競ってそこに落ちているもを拾うのだ。

それはちょうど空手を以て子供を誑かすようなものだ、本当はそこに何の真実も無いのだ。

 

私は今はっきりと聖者の住所がいずこにあるかを語ろう。そのことについて様々に妄想分別するな。

ただ自己本性の大海に居る様に如実に修行せよ。学問神通は全く不要だ、

 

何故かというと、それらは皆実在の未辺事だからだ。心を知ろうと欲うなら、萬法の根源に徹せよ。

その根源にさへ達すれば、その末などはどうでもよい、

 

いつかは悟りに達して私がここで言っていることが分かることになろう。

しかし、その本源に達せぬ限り、皆噓の皮で何の価値のないのだ、

たとい学問知識があってもそれだけでは到りえないのだ。

 

潙山和尚はいったではないか、凡聖情慮悉く尽きた時に、

実相は露堂々と真実永遠の姿であらわれる、そうなれば事理不二である、それが即ち佛そのものだ。

 

(鈴木大拙全集第五巻華厳の研究p181乃至182、鈴木大拙「華厳の研究」角川ソヒフィア文庫p61乃至62)

 

【無方庵余滴】

△華厳とは、人間と森羅万象の関係性を再構築する手段である。(本著腰巻書評)

 

● いずれの宗教も教典があるのでは、宗教では無い、 禅では不立文字と云うではないか。
教典の外にあるのだ。 現下、世界は教典・教義は、 優劣を競う争いの元となっている。 
教典のいらない宗教の一つ位は この世に在ってもよいではないか。
教典のいらない宗教とは、
人と人は、知る、知らぬにかかわらずに、 心と心とが、通ずるを知り合えればよいにある。

 

●【得たものは転た捨て、一円相を飛び出して、(万法を伴に)一切衆生に奉仕する。】

 

▲萬法帰一 一亦不守(禅林句集p231)

萬法(まんぽう)一に帰す、一も亦(また)守らず。(信心銘)

(悟りのありがたさにも滞在せぬ。絶対をも超出する)

 

▲萬里無雲時 晴天須喫棒(禅林句集p282)

萬里雲無き時、晴天須らく棒を喫すべし

(絶対平等の悟りも猶止まるべき処ではない。)

 

▲截断佛祖 吹毛常磨 機輪転処 虚空咬牙

佛祖を截断して 吹毛常に磨す。 機輪転ずる処 虚空牙を咬む。(大燈遺偈)

 

▲万法に証せらる

万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

悟迹(ごしゃく)の休歇(きゅうけつ)なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

「正法眼蔵、現成公案」

・・・だがその安心に安住する悟りの痕跡(悟迹)が残る。故にそこに安住せず、

証上の修(悟り得た上の修行)としての修行を続けなければならない。