【無方庵余滴(続)余焔(よえん)雑話】⑤【公案と猿芝居】飯田欓隠老師(2023、12、29)

(巨匠「飯田欓隠老師語録全集」随感録「無、無、無」井上希道著より)

 

天桂禅師は学人の内容を点検するために「幽霊を済度してみよ」とぶっかけた。

果たせるかな学人は立って「ウラメシヤ!」とやった。これでこの公案は透る。

 

「宜しい」と言うことだ。俺は某師もとで「見性」したとなる。なんとしたことぞ。

これが世間の言う「見性」である。天桂はきつく戒めた。

 

曰く、「いつまでもそうしておれ」ときつい仕置きである。だが生ぬるい。

吾人はすかさず痛棒を食らわすことにしている。カス妄想を殺して真実に生かす為である。(p115)

 

何故こんな猿芝居が禅なのか。不思議に思うはずである。こんな芝居は禅では無い。

法は悟道により法と成る。悟るためには菩提心のもとに世念を坐断し、意識の根元を空ずるしかない。

 

成り切って自己を忘ずることだ。「見性」とはその物と一つに成る。同化である。一体である。

よく、成り切れと言うではないか。この瞬間、本来自己の無いことが自覚される。この自覚症状を見性という。

 

つまり一体になったふうをして済度したことにしたのだ。幽霊に成り切って見せた猿芝居が「ウラメシヤ!」である。

(p116)・・・・・

 

 とにかく「分かりたい」と言う要求と「分かった」と納得する心が捕らわれだと気が付いている者は少ない。

これが諸悪、迷雲の根元である。「分からない、分かりたい、分かった」という意根、即ち自我を殺すための坐禅修行である。

 

徹し切って初めて真相が露堂々となる。ここを本当に体得しなければ決して解決しない。

無門関十九則(平常心是道)にしかと参ずることである。

ここらで公案の弊害を知ってもらいたい。徹し切って「不知」を会得するのが禅の本領である。(p117)

 

・・・

理屈から離れ「縁」に成り切らねばならぬ理由が分かれば決して理知に遊んではならぬ。遊ばれてもならぬ。

「不知」或いは「総に知らず」と言われると、馬鹿にされたと思う者もいる。看る眼無しとはこういうことである。

 

★禅の要訣は唯【不知】の体得にあって他なし。公案は「今」「只」の現成公案に限る。(p119)

 

【無方庵余滴】

●空手にして、一切衆生の元へと返る。

(そして命尽きるまでの菩薩行となる。)

 

▲神通並びに妙用、水を荷(にな)ひ也(ま)た柴を搬(はこ)ぶ。(禅林句集p267)

 

【境界】

▲空手にして、鐵牛を牽く。
(禅林句集p84)
(二元的対立を超越した
自由な禅的はたらき。大悟せるもののすぐれたはたらき。)

▲鐵槌春風に舞う(禅林句集p105)
(分別を超えた自由自在な働き!)  
 (二元的分別を超越した上での自由自在な働き。)
(無分別の自由自在な働き)

 

▲或る僧が、「祖意と教意とは同じか別か」と問うと、ある禅師答えて
「金烏(きんう・日)が東に上(のぼ)れば人は皆貴ぶ、
   玉兎(ぎょくと・月)が西に沈むと佛祖は迷う」

と言われたが、この真意をどう思われるか。 

(澤水法語…十三、悟証の上の大事)