私はあの揺れを知らない

出張途中の鈍行列車がドンッと言う大きな音と衝撃で止まった

それが最初の揺れだった

なぜ列車が止まったのか

知ったのはしばらくたってから

車体はカーブで傾き

地震だとわかるとだんだん恐怖が増してくる

 

様子を見てとりあえず駅まで動かすと聞き

不安と安堵が入り混じった気持ちで見守る

 

事なきを得て次の駅まで移動して

列車で夜を明かすことがアナウンスされた

幸いなことに

列車はディーゼル車

暖房も灯りもともったまま

車掌さんの計らいでアナウンスはラジオに切り替わった

 

車両内には

大学生のサークルメンバー

就活で私の住む高崎からの帰りの学生

仕事で移動中のサラリーマン

耐えられず数少ない宿を探して下車する人

 

駅は八高線「毛呂駅」

覚悟を決めた私達に届いた次のアナウンスは

次の乗換駅「高麗川駅」まで車両を移動させること

 

次の地震が来ないとも限らない状況下で

列車を動かすリスク

今のところ脱線していないが

移動中にもう一度大きな地震が来たら

脱線するかもしれない

 

でも動かすと言う

 

「高麗川駅」に無事着いた

 

この駅での一晩は

この後の私の人生に大きな変化をもたらした

でも・・・・

 

1年後

仙台で仕事をする私

何も行動に移せず悶々とする私が問いかけた彼女は

「笑っていてください!それだけで東北に笑顔の連鎖が届きますから」

 

松島で親戚の多くが津波で被災した

自身は会社で多くのものが崩れ落ちる中とても言葉で表せない恐怖を感じ

異動願を出してここにいる

と話してくれた

 

その彼女からの一言は

その恐怖や苦しみ、悲しみがどれだけ大きかったか

鈍感な私にもわかる

そんな一言だった

 

そして

私は

そのころから

被災地を少しでも応援できる何かをさがして暮らしている

 

ホントに小さな小さな気持ちだけど

それでもと思い・・・・

 

2012年9月出張の仙台から足を延ばし、仙石線「野蒜駅」のあった地を訪れた

かつて家族で海水浴に来た土地

泊まった宿は津波に流され

残っていたのは中学校の鉄筋コンクリート校舎だけ

1年以上が経ったその日

復興が何も始まっていない現実を見た

 

2019年やっと釜石や女川を訪れることができた

釜石は大好きなラグビーを通して

復興を応援したくて

 

女川は

東京で開催されたビールフェアで出会ったスペインタイル

表札を作りに

ネットでも注文できますよと言われていたけれど

夫といつか女川で作ろうと決めていた

 

今年は新型コロナの影響で

東北旅行を諦めた

代わりに何かをと模索中

 

3.11

胸が苦しくなる

でも、その痛さを忘れたくはない

大切な人や場所を失くしてしまった人たちに

寄り添える自分でいたい