前回の、つかみどころのない内容に、共感してくださってありがとうございます。
いいね、もたくさんいただきありがとうございます。
前回の文章は、誰かを慰めたかったわけでもなく、励ましたかったわけでもなく。
健常、といわれる娘と、障害、といわれる息子の2人をずっと見てきた中で、確信したことです。
それが、真理だと思ったからです。
人の助けがなければ生きていけないのは誰しも同じ。
困っている人がいたら、手を差し伸べる。
当たり前のこと。
この社会は、大多数の人が生きやすいように、カスタマイズされています。
そのシステムにうまく乗っていけない人間を、総称して、「障害者」という名前をつけただけ。
この、「障害者」という言葉は、戦後の高度成長期で、工場の大量生産が行われるようになった時、均一的な労働力が必要になり、その流れにうまく乗れない人たちを総称する言葉として生まれたのが始まりだと聞いたことがあります。
人が困っていたら、その困り感によりそい、どう支援したらみんなと同じにいられるか。一緒になって考えてあげること。
それは、みんなにとって大切なこと。
よく、学校で問題が起こって、発達の検査を受けたけど、異常がないといわれて放置された、なんて話を聞きます。
大事なのは、障害か健常か、じゃないでしょう?
すでに、その子も親御さんも学校の先生もみんな困っているんだから、どうしたらよりよく過ごせるか、みんなで考えてあげましょうよ。
障害じゃない、っていうのを、何もしなくていい理由にしないでもらいたいですよね。
もう、高度成長期もとっくに終わり、みんな同じことをしていればいい時代は過ぎているのに、学校の中では未だに軍隊のように、みんなと同じ、を求められます。
閉鎖的な空間の中で、未だ戦後が続いているような気がします。