(voicy)
ちきりんさんの
2年前の
ラジオ・コンテンツなんですが
再生できる回を
探していたら
これに
たどり着きました。
この回の中で
ちきりんさんは
ちきりんさんの
本意とは違う
受け取り方をしてしまった
リスナーさんに
向けて
彼女の
意図を説明されてます。
それで
僕、昔から周囲にたいして
自分自身
思ってたことが
ありまして
それは
なにかというと
(全員が国語で満点とれるわけじゃ
ないからなぁ。。)
っていう
他人に対しての
ある種のあきらめ。
よく
小学生の
国語のテストで
このときの作者の意図を
答えよ。
みたいな問題が
でるじゃ
ないですか。
でテスト問題になる
くらいだから
出題に選ばれた
文章の方は
満点に近いものを
書いてるわけ
です。
でも
それに答える側は
全員が
満点な回答で答える
ことなんて
一度たりと
なくて
残念ながら
それが“他人“というもの
なんですよね。
そういう風に
僕は前々から思ってまして
なので
他人に対しての
期待値が
最初からおそろしく
低いです。
ですが
ただし
このとき
あたりまえのように
して発生する
“間違え“
は
しかし
“こちらにその責はないもの“
とどこかで
わりきって
突き放して
考えてます。
そうしないと
ストレスが
たまってしまう。
なので
誰かに
100パー理解されること
なんてなくて
ゆえに
どこかで
誤解が発生して
それで離れるひとが
出てしまっても
それも当然
と割り切って
生活してます。
ちきりんさんの場合は
インフルエンサーの立ち位置で
リスナーをつなげ止めて
おくのが
商売上必要なことでもあり
そうすることが
リスクヘッジに
なるので
やっておられることだと
理解してるので
これで
いいんですが
他人への
期待値が高いひとが
示す不満に
生活のなかで
まま突き当たったとき
それはもう
切り捨てるしか
ないっしょ~
って
思うことが
あります。
切り捨てる
っていうのは
選べる物は選んで
離れれるなら離れよう
会話しなくていいなら
そうしようよ
ってことなんですよ
ねぇ。
将棋のプロ棋士のひとが
解説の場などで
話をされているのを
昔きいていたとき
その方は
付帯条件をたくさん
つけて
聴衆に
誤解をうけないように
正確に話そうと
されてました。
でまあ
将棋というのは
ゲームの性質上
付帯条件を沢山考えて
それを正確に理解し
その付帯条件の盲点を
ついたりするのが
将棋というゲーム
それで
そう話されるのが
癖になっていると
思うんだけど
でも
普段の会話で
神経質に
付帯条件を列挙してしまったら
話の内容そのものが
う~~ん
って感じになっちゃうんです。
正確は正確だろうけど
なんだかなぁ
みたいな。
この場合
もう付帯条件はとっぱらって
筋だけバンとしゃべってしまって
それで
「だけど、別の場合は○○なんじゃ
ないですかぁー?」
みたいな
想定の範囲内の
いじわるな突っ込みが
たとえ
どっかから
来ても
それを
笑って無視するくらいの
神経の太さが
あったほうが
いいんじゃないかと
思いました。
ようするに
そんな無用の突っ込みも
僕の意識からは
切り捨て
なんですよね。