昨夜はやっぱり飲み過ぎちゃった。

学校が終わって、会社の人と合流。

行く予定だった焼き鳥やさんがいっぱいで、結局よく行くおしゃれ居酒屋 にチェンジ。

お気に入りの店なので良かったんだけど、いつもあそこに行くと飲みすぎちゃうんだよね。

お店のレポはまた今度、ってことで。


重たい頭をむりやり起こして、朝から経営学のレポート作成。

今日は先日の休講を受けて、土曜日なのに夕方から補講があるのだ。

せっかくの土曜日、勘弁してよダウン

しかも完成したレポートをWEB提出しようとページを開いたら、

私が提出テーマだと思い込んでいたものが違ってた!!

作り直しかよ~ガーン

ってことで、せっかく書いたのに日の目を見ないレポートを

悔しいからここに乗っけとこう。

テーマは、映画「12人の怒れる男」から見る組織の意思決定について

(実際のテーマは、映画の登場人物12人の人物設定をまとめなさい、という

ものだった…なんだよそれっ!)


 被告は有罪か無罪か…異なる立場にいる11人対1人が、様々な議論を経て1人対11人と逆転し、

やがてはひとつの結論に収束するという、ストーリーそのものは単純である。

しかし、授業のテーマである『意思決定理論』という観点から見直すと、

集団が、一致したある結論に達するまでの選択の過程がわかり易く描かれていたように思う。


 サイモンの意思決定論によると、意思決定の前提は価値前提と事実前提の2つに分けられるという。

つまり、意思の決定において、価値(企業経営においては経営理念などの構成員共通と思われる

判断基準)を判断基準とするのか、事実(過去からの事実の把握)を判断基準とするのか、ということである。

この映画の登場人物がそれぞれ被告に対して下した審判をこの理論のぞれぞれに当てはめると、

なるほど多くの陪審員が持っていた被告が有罪たる理由が、その多くは「あの不良少年ならば、

父親を殺したとしても不思議でない」といったような、価値前提のもとに下されたものであったことが分かる。

一見事実による認識とも見える判断も、実は同じ価値基準により歪められたものが殆どであった。

だからこそ、無罪を訴える一人の正確な事実認識の下に次々と論破されてしまったのであろう。


 しかしながら、サイモンは同理論の中で、価値の判断基準は人によって異なり、

事実に基づく判断基準は事実の把握に限界があり、従って限られた選択肢(合理性)のなかから

満足し得る結果を選択するという『満足化原理』が意思決定の行動原理であると説いた。

つまり、陪審員は事実判断からのみ少年の無罪評決に決したのではない。

この映画の場合、判断基準そのものが、審議の初めと終わりで変わってしまったのではないか。

少年が圧倒的に有罪とされた初めの時点で、11人にとっての「価値」は「不良少年は悪であり、

有罪としなければ社会の秩序が守られない」といった、偏見に満ちた正義感であった。

しかし、実はこの「価値」に対しそれぞれが心のどこかで罪悪感を持っていたのかもしれない。

1人が訴え続け最後に11人が認めた「価値」は「無罪の可能性があるならば、

少年の未来を救うべきである」という、より人間的な判断基準であった。

ここにきて理念と事実の満足化がおこなわれたわけである。


 意思決定のモデルとしては、この物語における登場人物たちの役割を階層構造として捉えることもできる。

またさらには、それぞれの人物設定のなかに、経営組織論でいう組織構造や組織行動の類型、

あるいは人的資源管理における、いわゆるハロー効果や平均化傾向、論理的誤差といった

考課問題まで見て取ることができる。こういった別の視点からも、もう一度見返してみたい映画である。