フォークゲリラを知ってるかい? その16 | AFTER THE GOLD RUSH

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とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな音楽よ――

弾痕 1969年9月に公開された東宝映画「弾痕」は、アクション映画としても、フィルム・ノワールとしても、到底褒められた出来とは言い難い作品だった。加山雄三扮するCIAの工作員が狙撃銃片手に展開する、暗く、重たく、そのくせ思想的に全く薄っぺらなストーリーは、まるで60年代の終わりに立ちすくみ、沈澱したかのように、疾走感も爽快感も無いまま、どす黒い血の海の中で不条理なエンドマークを迎えるのだ。
しかし、ぼくにとって、この陰鬱なB級映画は、69年夏の新宿駅西口地下広場を、そして、そこで歌う高石友也の姿をカラー映像で記録したという一点において、僅かに価値がある。

 

弾痕 映画の後半、加山と太地喜和子が新宿駅西口地下広場を歩くシーンが唐突にインサートされる。彼らは、物乞いする乞食のようにまとわりつくカンパ学生を追い払いながら、「友よ」の歌声が響くフォーク集会 ―輪の中央では高石がギターを弾いている― の横を足早に通り過ぎていく。やがて場面は、誰もいない深夜の西口地下広場に変わり、一人柱を背にした高石が「死んだ男の残したものは」を歌う、という時間にしてわずか4分程度のシーンである。撮影時期は、高石や群衆の服装及び西口地下広場が7月19日以降“機動隊広場”となった状況、さらに映画の上映日などから推測すると、概ね69年6月中旬から7月上旬と考えていいのではないだろうか。


さて、ここではたと考えてしまうのが、高石の真意である。というのも、この日、高石自身の弁によると、仕事の打ち合わせから逃げ込む形で、フォーク・ゲリラの中に飛び込み、彼らとともに歌ったらしいのだ。それは予定されていた映画の撮影とは全く関係の無い、高石自身の意思によるハプニング的なものだったという。つまり、映画の撮影という「仕事」のために歌ったのではなく、ゲリラ達に共鳴しての行動だった、というのが彼の言い分のようだ。

 

事実はどうだったのか――。分からない。ただ、高石のこの行動が、ゲリラ達の過剰なまでに潔癖な“商業主義アレルギー”を刺激し、後日、激しい批判を浴びたことだけは確かだ。69年8月7~11日、大阪城公園で行われたハンパク(反戦のための万国博覧会)で、そして同月11日に日比谷野外音楽堂で開催された「フォークゲリラ大集会(*1)」において、高石はゲリラ達から「自己批判」を迫られることとなる。

後者の様子は、70年代末にSMSレコードから“幻のフォークライブ傑作集”シリーズの1枚としてリリースされた「'69日比谷フォークゲリラ集会」で聴くことができる。ゲリラとプロの歌手との “意識のズレ”を生々しく記録したこのLPは、ステージに上がった高石の次のようなコメントで始まる。


高石友也フォーク・アルバム第3集 「『フォーク・ゲリラのナントカ』っていうんですけど、照れ臭うて、できんのですわ。だから普通の野外コンサートだと思って聞いてくださいな。なんかね、こう、『ワーッ』なんてこんなにカッコいいもんじゃないと思うから、ちょっと場違いみたいな気がして――。フォーク・ゲリラといえば、今はもう新宿の方なんです。元から僕らはそのつもりでやってきて、音楽会であちこち全国歩き回ってましたけど、最近では西口っていうことになって、あそこは自分たちの歌の場所をつくるとか、あるいは広場をつくるってんで、闘っている連中ですけど、そういう同じ名前で、こういう風に見守られながらやる音楽会。俺は両方あっていいと思うんで、外だけで闘うことを俺もやっているつもりだけど、やっぱりこの中でやらなきゃいけないという、そういう状況も、お互いに痛みというかね、そういうのを考えながらやりたいと思うんだ。」

 

言葉の端々から高石自身の疲れと戸惑いが伝わってくる。3日前のハンパクでの長時間にわたるディスカッション(*2)、そして、徹夜で行われた中津川フォーク・ジャンボリーを前日に終えたばかりの彼は、いまさら「フォーク・ゲリラ」の看板を背負って歌わなければならないという損な役回りに、少なからぬ違和感を抱いていたに違いない。そんなネガティブな気分を吹き払うかのように、高石はつとめて陽気に「よそ者のブルース」を歌いだす。しかし、ゲリラ達は、高石の迷いを見逃さなかった。もしかすると、それは“日和見”と映り、彼らをひどく苛立たせたのかもしれない。
ほどなくして、ステージは高石の「歌に対する姿勢」を糾弾するゲリラ達に占拠されることとなる。
以下、少々長くなるが、高石とゲリラとのやりとりを追ってみよう。

 

高石 (壇上を占拠したゲリラに向かって)唄歌ってよ、ごめん。今日は歌の会なんで、俺はどっちかというと歌で勝負したいんだ。話し合いは後ろで別にやりたいわけで
(会場 大きな拍手。)
高石 (声を荒げて)分かってる、分かってるッ! 聴きに来た人が沢山いるんだ!
(会場から「そうだ!」の声 さらに大きな拍手)
会場  帰れ! ナンセンス! 帰れ!
(ゲリラと高石が、マイクを渡す、渡さないで揉めている様子)
高石  俺に喋るより、向こうにきいてくれなきゃ。俺の権限でマイクを渡すわけにいかないっていうからさ。だからきいてよ。(拍手)
ゲリラ (激昂して)そういうもんじゃないでしょ!

Folk Guerrilla ゲリラA えーっとね、僕たちですね。(カエレ、カエレの激しいヤジ)ちょっと聞いてくださいよ。確かに高石友也はね、一番最初、去年あたりから、労音とかね、また本なんかにもいろいろ書いてあるとおりね、彼がフォークソングシンガーとしてね。もちろん僕ら自身の中にも、高石友也さんの歌聴いてから入った人間も数多くいるんですけどね。今の高石友也さんというのはね、当初の、ピート・シーガーとかガスリーなんかと(違ってきたのではないか)。「フォークは未来をひらく」という本の中にも、「僕がプロになったために歌えなくなった歌が沢山出てきた」とか、そういう風に書いてあるんですけどね。僕らが聞きたいのは、高石友也が求めていた、日本におけるフォークソングシンガーとは一体どういうものか。

それから僕らは事務所の関係とか、そういうの分からないんですけどね、今のところ高石友也がマスコミとか事務所なんかに振り回されているような気がするんですよね。(拍手)
例えば、この前の新宿西口においてもですね、確かに高石友也は来たんですよね。来たけれどもね、高石友也と後でいろいろ話したら、どこかの映画会社が「高石友也の一週間」というのを撮っていて、そこから逃げるために西口に来たって言うんですけどね、西口で高石友也が歌った時、その周りには映画会社のカメラがあってね、またその後ろにね、高石友也さんの後ろにね、「東大闘争カンパ」と書いた何人かの人間が立っていたんですよね。しかしながら、その「東大闘争カンパ」と書いた人間どもはね、まったくその東大闘争とは全然関係無いようなエキストラばっかりだったわけですよ。僕らはこういうことに対して、一体、友也さんの求めていたフォークソングとはどういうものなのか、今この場所でいろいろ訊きたいわけですよね。(拍手)

 

高石 4日前にハンパクで僕らフォーク集会やって、延々と途中で僕の歌も無しでそういう話し合いずっとやってました。それも時間のズレだった、という話もやってますけれども。ただ、僕は東宝の社員じゃないってことだけは言えるわけで。そこで、例えば全共闘ってことを書いた覚えもないしって、そういうのは卑怯だ、そもそもマスコミの中で関わっていることが良くないことだって言われたら、誰もここで生きていけなくなるわけだし。


ゲリラA (不満そうに)いや、そんなこと――。


高石 (遮って)じゃあ、何ですか。本質の問題でそれは言えるわけです。それこそ、いろんな雑誌で書いている人だって、いわゆるイヤラシイ本の中で自分の主張をしている人だっているわけで、今度の東宝の場合も「死んだ男の残したものは」っていういい歌、谷川俊太郎さんの歌がもう一回やれるっていうんでやって、それを映画の方は12時から夜中のエキストラ使って、ちゃんとやりなお・・、やり直しじゃない、最初からそのつもりでやってたんだから。で、夕方俺が(西口広場に)行ってたことで、東宝が宣伝の方から電話を――俺は知らないんだ、それをね――電話を取材の人に言っちゃったもんで、俺が6時に別な打ち合わせをやっている時に、そのままフォーク集会の、ゲリラの中に逃げ込んだ形になったのを、そのまま後ろの方から使ったにすぎないんで。俺がそれをやれって言った覚えはないし。全共闘って書けって言った覚えもない。ただ、それを、全共闘ってやったのは俺じゃないって言って俺は逃げるつもりはないわけで。そういう風な中でも、「死んだ男の残したものは」というのをやりたかったから、その映画に出た。それこそ映画に出たことがまず悪いっていう、その話をしなきゃ俺はしょうがないと思うんだよね。その時だって、取材の人、今日も来ているけれども、「もっとこんなポーズしてください」、そういう言い方するわな。俺、そんなの関係ないわけで。

俺だって、2年前に新宿でもやっているし、全国的にいろんなところで、いろんな風にやってきたつもりはあるわけです。そして、あなた方が見ている行動が、テレビとか、こういうところとか、いくつかしか無いと思うんです。一昨日何をやっていたかというと、(中津川での)15時間のコンサートです。夜中は泥沼です。それまでススキが生えていたところへ、地均しやって、砂持ってきて、雨の中こんななって、ビニール敷きながら、千八百人ですか、15時間、夕方6時から朝の9時10分までやりました。そんな音楽会、皆さん誰も知らないだろうと思うけれども。そんな中で、僕らのこういう歌が育っていくと思う。さっき、アマチュアがいくつか唄っていた歌で、「町工場のブルース」だって、あるいは「友よ」だってそうだ。泥まみれになりながら、小さな集会でやってた歌です。30人とか、20人とか、自分たちでコンサート持ちながら、あの歌発表してきて、ここでやったら、カッコよく見えるだけだ。ただ僕ら、こういうところだけでやってるわけじゃないということは分かってほしい。(拍手)

 

ゲリラA じゃあ、そこにおいてね、僕らは確かに、友也さんが他でやっていることはあまり知らないんだけどね、単なるフォーク・ゲリラがどうのこうのというんじゃなくてね、何もフォーク・ゲリラとは僕らのことだ、とかそういうことじゃなくてね、さっきアマチュアの人間も何人か言っていたけど、(今のフォークソングは)全くの商業的な宣伝効果しか狙っていないということをね、僕は思うわけです。そういう事実に対して、あなた方が、歌う前に強く突っ込んでもらいたい。

 

高石 俺なりに突っ込んで、それが足りないって言われればおしまいになるわけで。もう一つ、フォーク・ゲリラもマスコミでかなり振り回されていることも確かなわけで、お互い様、それは考えたいことなんで。(拍手)

俺のレコード出して、買ってもらうことが悪いことにつながることだってあるし。ベートーベンの音楽が、死刑執行人のドイツの将校が聴いてたって話もある。そういう歌の広がりってのを考えなくてはいけないんじゃないか。新宿の場合、非常に闘争的にやっているわけで、歌の効果とか、歌が「いきる」という話までいかないのが、この間の大阪(ハンパク)の時でも残念だったわけだけど、俺はやっぱり歌から考えたいわけですよ。そうじゃなきゃ、この場所だってマズイと思うし、大阪の時だって、歌主体にして話して、ずっと夜中の2時半までやっていたわけです。それで次の日が徹夜の中津川っていう田舎の湖でやるからって、俺は2時半で帰ったけれども、それまで延々と10時頃から(議論を)やってました。

歌を中心にして話す時に、お互いにマスコミっていうよりもね、音楽は表現する手段ってことを考えてほしいんだ。俺がなんで外でやったかっていったらね、僕らの歌は守られないからね、外でやったわけよ。いわゆる人々の歌ってことでね。売れる歌だったら、黙ってたってやってくれるんだ、向こうで。僕らの歌はそうは言ってくれなかったんで、自分らでいろんなところで場所を開拓してきたつもりがあるんだ。
今日だって言ってたのは、こんなにワーワーいわれたんじゃ、やりづらくてしょうがない、俺は「岡林来るな、来るな」って思うんです。俺だって今日は来たくなくてしょうがなかった。なんかこんなフォーク・ゲリラって名前でしゃあしゃあやれる俺じゃないって分かってますしね。もしこのままやったら、俺が潰れるの、腐るのは分かってるし。

でも――、聴く人が沢山いるってことは、俺やんなきゃいけないなと思ったんだ。(大きな拍手)

 

(ゲリラに対して「キミたちの歌を聴かせろ!」「帰れよ!」などの激しいヤジが飛ぶ。)

 

ゲリラA えっとですね。今、高石友也が「聴く人がいるから歌いたいんだ」と言うからね、確かに僕ら今ここにおいて、友也さんとちょっとしか討論とかやっていないけれど、これが終わってから、高石友也さんも来てくれると思うんですけれども―、(高石に向かって詰問調に)ちょっと時間あるんですか?これが終わってから。スケジュールとかあると思うんですけど。ありますか、時間?

 

(ゲリラに向けて、さらに激しいヤジが会場から飛ぶ)

 

観客  (壇上に上がる)今日はね、歌の会なんですよ。あなた方の歌聞かせてください。
ゲリラA 僕らはね、歌・・・(聴取不能)・・・しないですよ
観客  (興奮して)あなた方の歌を聞かせてください!(拍手)

 

ゲリラB 僕らが言いたいのはね。僕らは高石さんと岡林さんの歌うたってますよね。確かにそれは歌っているわけです。でもね、歌がたとえどんないいものであろうとも、そこに対する歌の姿勢っていうのが大事じゃないかと考えるわけですよ。
(拍手とヤジ。「あなた方の歌を発表しなさい!」のヤジ)

 

ゲリラA 僕ら、高石友也さんといろいろ話したかったんだけどね、確かに今の人が言ってきたように、ここは歌う時間だということでね、僕ら引っ込みますけどね、これ終わってから、今度はただ歌を聴くんじゃなくて、フォークソングとは一体何なんだろうという集会をね、高石友也なんかを交えてやりたいんですよね。フォークソングというのは、ただ楽しめばいいというものじゃないと思うしね、そういうことをね、もっと考えてもらいたいんですよね。これ終わってから、高石友也さんなんかとも相談して、いろいろやるっていいますから、日時なんかあったら、よかったら来てください。

 


Folk ぼくはこのレコードを聴くたび、やりきれない気分になってしまう。高石とのまったくかみ合わない議論、そして会場に集まった同世代の聴衆からも拒絶されてしまうゲリラの硬直化した主張。西口地下広場で、通勤帰りのサラリーマンや主婦の足を止め、―幅広い世代から共感を集め―、のびやかで瑞々しいエネルギーを発散させていた彼らが、何故かくも狭量な教条主義的陥穽に陥ってしまったのか? 
その理由として推測できるのは、ゲリラ達の立ち位置の変化である。つまり、新宿から排除され、行き場を失った彼らの怒りと焦りが、拠って立つ軸足を全面的に「運動」側にシフトさせてしまったのではないか。目的性のない「運動」はありえない。そこには常に「~とは何か」という根源的でしんどい問いかけが付いて回り、それを(内部的に)突き詰めていくと、帰着点は極めて閉鎖的な自己批判と他者批判になる。彼らは、「運動」に急速にシフトしていく中で、高石や岡林らプロのフォークシンガーに対しても、自分たちの運動体にしか通用しない論理―「フォークソングとは何か」―の押し付けをはかり、筋違いな自己批判を迫ったのではないだろうか?

 

それではゲリラ達にとってフォークソングとは一体何だったのか? 「現代の眼」69年12月号に掲載された「随想フォークソング」の中で、東京フォーク・ゲリラのH君は、「歌とは状況の集合体であり、政治闘争の過程では一つの戦術として規定される」と定義づける。またⅠ君は、「フォークソングは根底に社会変革の流れがなければならない。たとえ革命が起こった後であろうと、フォークソングは批判的に育っていかなければならない(*3)」と語る。つまり、彼らにとってフォークソングとは、心の内側から自然に湧きあがってくる感情の発露、もしくは感動の対象ではなく、冷徹なまでに「運動」の手段であったといえよう。
しかし、当初の彼らは―少なくとも69年5月17日の弾圧までは―もっとしなやかで柔軟だったはずだ。事実、西口地下広場で歌い始めた頃、彼らは次のような討論を繰り返していたという。

 

「フォークソングはね、語りかけるのか、それともアジるのかって」
「それはもちろん語りかけるべきだと思うんだよ」
「そういうふうに問題を出すと、さっき君が出したものとちがっちゃうんじゃないかな」
「そうなんだよ。ぼくがいったのはね、フォークソングは独立した歌としてあるのか、あるいは政治的手段なのかっていうことなんだ」
「フォークソングっていうのは、やはり立派な芸術だと思うの、わたし」
「フォークソングっていうのは必ずことばをもっているだろう。そこんとこから、たとえば、ベートーベンやショパンなどと違っているところがでてくるんじゃないかな」
「・・・つまり、コミュニケーション」
「そうそう、そういうふうに考えればね。アメリカならアメリカのフォークソングを英語で歌うっていうことには、あまり意味がないわけよね」
「いったい、なぜぼくらは新宿の広場でフォークソングを歌うんだろう?」
「だからさ、さっきコミュニケーションしたいからだっていっただろう」
(吉岡忍編著「フォーク・ゲリラとは何者か」自由国民社、1970年)

 

コミュニケーションのツールとしてのフォークソングが、政治運動の手段となった時、歌は間違いなく腐敗する。ゲリラ達のフォークソングが、断絶のツールに転化したのは自明の理だったのかもしれない(つづく)。

 

(*1)高石のほか五つの赤い風船も出演。予定されていた岡林信康は最後まで姿を見せなかった。なお、この奇妙な集会の主催者、開催意図等については記録が無く不明。日比谷野外音楽堂での集会は、この後8月23日にもべ平連と東京フォーク・ゲリラ主催の下開催されている。
(*2)高石友也、岡林信康、中川五郎らと東京フォーク・ゲリラとの間で、プロテスト・フォークについての論争が行われた。福岡風太氏は、「ハンパクでは高石友也さんがティッシュペーパーのテレビCMに出演したということで吊し上げられたりしました」(「AERA in FOLK」2006年4月)と証言している。また、中川五郎氏は、レコード・コレクターズ2003年4月号のインタビューで「僕が“関西フォーク終わったなあ”って意識したのは、69年にあった大阪万博に反対する一連のイベントで“ハンパク”っていうのがあったんですけど、そこで反戦運動している人たちや社会的な活動をしている人たちから高石と岡林がものすごく批判されたときですね。商業主義とかいろいろな面で。“ハンパク”での討論会でも消耗させられるようなことがいっぱいあって、特に高石、岡林はそのへんでガックリ来たんじゃないかなあって思いますね」と話している。
(*3)吉岡忍編著「フォーク・ゲリラとは何者か」自由国民社、1970年

 

日めくりタイムトラベル 「新宿西口フォークゲリラ」考