危険が我が身に迫るまでは何処の国も安全?:前田正晶 | 日本のお姉さん

危険が我が身に迫るまでは何処の国も安全?:前田正晶

危険が我が身に迫るまでは何処の国も安全?:前田正晶

私は1970年7月7日に初めて海外に出かける機会を得た。丁度満46年目だ。 その旅の2国目がフィリピンで、古いパスポートの入国スタンプは最早良 く読めないが7月15日に入国したようだ。マニラの表
側とその近郊のマカ テイーは適当にアメリカナイズされた綺麗なところだった。

しかし、チェックインしたインターコンテイネンタルホテルには武装した ガードマンが至る所にいて海外事情に不案内だった私はここでまず最初に 驚かされた。案内してくれた現地の取引先の社長の
息子さんに「絶対に単 独ではホテルの外には一歩たりとも出ないこと」と警告された。


何処に行くのも彼と現地の人が一緒だった。かの有名なロハス・ブール バードのナイトクラブに案内された日本から来たばかりの田舎者の当方 は、クロークに「銃器を持っている者はここに預け
るべし」と掲示されて いるのを見て度肝を抜かれた。自発的に預けるのだったならば、中には 持ったままの者がいるかも知れないではないか。聞きしに勝る国に来たの だ
と痛感した。

1972年からは頻繁にアメリカに出張するような仕事に変わったが、当初は アメリカでは巷間伝えられているほど危険な国とは思わなかった。

だが、シカゴのかの有名な黒人街が展示会場へのシャトルバスの道筋に 入っていたお陰で何日も通ったが、車内からでもその不気味さと恐ろしさ は十分に味わえたのだった。

93年にはGPSなどないレンタカーを運転していた商社マンが道を間違えて アトランタの黒人街には行った時の何とも言えない雰囲気の物凄さも経験 した。だが、何の実害もなかったのは当然。

長年慣れ親しんだシアトルは美しい街で治安も良く何の心配もなく、家内 には昼間のダウンタウンの一人歩きをさせたくらいだった。

だが、1985年10月にはシアトル市外のショッピングモールに後数メートル のところで貰い事故(自動車のである)に遭って、会社に復帰出来るまで 半年かかった大怪我をさせられた。ではあって
も、シアトルは危険ではな く安全な街だと思っていたし、自動車にも躊躇うことなく乗せて頂いていた。

だが、自動車とは非常に危なくて怖いものだと思っているし、アメリカ人 の運転は当てにならず身を守る為には万全の注意が必要だとは認識出来 た。自動車がどれほど危ないかは、事故に遭って苦
しめられて初めて解っ た。それまでは全く危険だと思わなかったし、シアトルの安全さを信じて いた。

因みに、我が家では父親は1937年に貰い事故で死亡し、実弟は64年に神奈 川県下でアメリカ兵の酒酔いで免許証不携行の運転に当たられて、会社復 帰まで2年を要した大事故に遭っている。彼は助手
席に乗っていたのだっ た。私を含めて誰も免許は取っていないし、運転の仕方も知らない。

1997年に某商社のお手伝いで初めてインドネシアのジャカルタに入った。 駐在員からは(嘗てのNYなどとを思わせる)「単独で外出しないこと、特 に夜間。もしも出たい時はホールドアップに備え
て小銭で10ドル程度を 持って行くこと」、「我々がは厳選した場所にしか案内しないが、何処に 行っても絶対に単独行動をしないで欲しい」等々を厳しく警告された。バ リ
島ではヌサドア地区のホテルに入ったが、その地区の外には絶対に出な いことを言われた。私はこの旅では下痢だけで済んだのは幸運だったか。

99年にはパック旅行で訪れたイタリアはフィレンツェでは表通りで、例の 「子供が新聞紙で遮蔽して」の一団に襲われたが、皆で大声で一喝して無 事に排除したが、現実に彼らに遭遇して見て矢張
りそういう連中がいるの だと知った次第。

2001年だったかのスペイン旅行では現地人のガイドがサクラダファミリア の前で自由時間を宣言して5分と経たぬ間に、例のウエイスト・ポーチとや らを装着した中年のご婦人が後ろから羽交い締めに
遭って財布等を抜き取 られた。あのポーチは狙われると聞いていたが、目の前に近いところで現 実となったのは良い(悪い?)勉強になった人が多かっただろう。

危険などというものは、それが現実となって我と我が身を襲ってくるまで は「そんなこと」とか「自分だけは大丈夫」と思いがちなものだ。だが、 私は実害にも遭ったし、その寸前に近い場所にも
行っていた。遭遇するか しないかは運不運も勿論あるだろうが、外国は絶対に我が国とは違うのだ ということを十分に認識して出かけるべきだ。

即ち、現地人無しかガイドがいない単独行動や夜間の外出は禁物だという 大原則。尤も、それ以前に「行かなきゃ良いのだ」との説もあるが。