日本人のいいところは、今も同じだよ。きちんと良い仕事をするところ。 | 日本のお姉さん

日本人のいいところは、今も同じだよ。きちんと良い仕事をするところ。

なぜこんなところに日本の桜が? ウズベキスタンに咲く「追憶の桜」
2016年4月13日

旧ソ連の雰囲気が色濃く残るウズベキスタンの地に、多くの日本人抑留者たちが眠っていることをご存知でしょうか。春になるとこの日本人墓地の周辺は美しい桜で埋め尽くされます。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派
日本人養成講座』では、シベリアに抑留され、ウズベキスタンで強制労働に従事していた日本人と地元の方々の感動のストーリーが紹介されています。

ウズベキスタンの桜

中央アジアの内陸部にあるウズベキスタンの首都・タシケントに、1,500人の観客を収容する壮麗なレンガ作りのナヴォイ・オペラ・バレエ劇場がある。1966(昭和41)年4月、震度8の大地震が市を襲い、市内の建物の2/3が倒壊した中でも、この劇場はびくともせず、市民の避難所となった。

劇場の外壁にはプレートがはめ込まれ、ロシア語、日本語、英語、ウズベク語でこう記されている。

1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイー名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。

劇場周辺の庭には染井吉野や枝垂れ桜、八重桜など30本の桜が植えられ、春には美しい花を咲かせる。ナヴォイ劇場だけでなく、タシケント市の中央公園にも600本の桜が植えられ、「さくら公園」と呼ばれている。さらに、そこに通じる大通りに250本、大統領官邸にも100本の桜が植えられている。すべて日本から苗木を空輸し、日本人の造園の専門家がついて、ウズベキスタンの人々が植樹したものだ。今回は、ウズベキスタンに、なぜこれほどの桜が植えられたかを辿ってみよう。

「なんとか、日本人のお墓を整備してもらえないだろうか」

事の発端は、2000(平成12)年10月19日夕刻、ナヴォイ劇場とその前庭広場で「日本の祭り」が開かれた時だった。当時の在ウズベキスタン大使・中山恭子氏が同国の伝統音楽や、宮崎からやってきた親善訪問団による「木剣踊り」などを見ていると、訪問団の2人が大使に相談したいことがあると言ってきた。

その1人、池田明義さんは戦後、シベリアに抑留され、ウズベキスタンのベカバードという場所で強制労働に就いていた。そこには一緒に働いていた仲間のお墓があるはずなので、ぜひ墓参りがしたい、という。

中山大使は急遽、タクシーや通訳の手配をして案内させた。翌日の夕方、池田さんは戻ってきて、大使に報告した。「自分達が作った水力発電所は今も立派に動いている。でも、お墓に行ったらとても悲しかった。ベカバードの日本人墓地は、荒れ果てたままになっている」と唇を噛み締めていた。そして「なんとか、日本人のお墓を整備してもらえないだろうか」と言い残して、日本に帰っていった。

その後、すぐに中山大使はベカバード市を訪れた。市長のジャロリジン・ナスレジノフさんが、まず水力発電所に案内してくれた。シルダリアという大河から水を引いて大きな貯水湖を作り、そこから6~7本の太いパイプで水を落として発電する、という巨大な発電所である。水力発電所は赤レンガ作りの立派なものであり、貯水池も向こう岸が霞むほどの大きなものだった。ベカバード市長は、案内しながら、こう話してくれた。


ベカバードはこの発電所が建てられた当時砂漠でしたが、この発電所や運河のおかげで今は緑豊かな大勢の人が住む町になりました。



ここで風速50メートルを超える突風が吹いた時にも、周辺の建物は全て壊れてしまいましたが、この水力発電所だけはビクともせずに動いていました。55年間、毎日、1日も休まずウズベキスタンに電力を供給してくれています。


次ページ>>中山大使が立ち尽くしてしまった光景と、現地の方々の思いとは


「何という風景でしょう」

それからベカバード市の共同墓地にある日本人墓地に向かった。ウズベク人、トルコ人、ロシア人などのそれぞれのお国ぶりの墓地の中心部辺りに、大きな野原があった。案内してくれた人が「ここが日本人のお墓です」という。

何もない枯れ野原で、目についたのは小さな垣根だけだった。その中に入り、足元を見ると、ちょうど人が横たわっているような盛り土が、幾筋もはるか遠くまで並んでいた。墓標もない。ただ頭のあたりに、はがき大の小さな鉄板が刺してあり、記号と6桁の数字が彫ってあった。捕虜の番号だろう。大使は立ちすくんだ。


何という風景でしょう。一体どうしたらいいのだろう。しばらくの間、その場に立ち尽くしてしまいました。

「あそこに眠っているのは、自分の大切な友達なんだ」

墓地を訪れた後、市長は中山大使を、日本人のことをよく覚えているという90歳の老人の家に連れていってくれた。子や孫、曾孫に囲まれた賑やかな一家だった。

老人は「お墓をお参りしてくれたのか。あそこに眠っているのは、自分の大切な友達なんだ。どうも有難う。お参りしてくれて有難う」とお礼を言った。大使が「日本人のことを覚えていらっしゃいますか」と聞くと、こう答えた。


それはもう、よく覚えているよ。自分は若い頃タシケントに住んでいたが、ベカバードに水力発電所を造ることになり、ここで働くようにと言われてやってきた。

日本人抑留者が3,000人ほどやってきて、すぐに仕事を始めた。


日本人っていうのはとってもいい人達だった。几帳面で、自分の仕事をとても大切にするんだ。時間がきても仕事が終わらなければまだ続けている。



うまくいかない時にもいろいろ工夫してやり遂げる。また、誰かが病気になるとみんなで助け合っていた。日本人が作るものは全ていいものだった。本当にすごい人達だった。とても大切な友達だったんだ。

こういう話を老人からいつも聞かされて、家族も町の人々も皆、日本人のお墓は大切にしなければいけないと思ってきたという。整備するだけの余裕はなかったけれど、草を刈ったり掃除をしたりして日本人墓地を大切に保存してくれていた。

同様に、ウズベキスタン全体では、大戦後、2万5,000人の日本人抑留者が強制労働に従事して、道路や運河、発電所、市庁舎、学校などを作った。ナヴォイ劇場はその1つである。どの地方でも、日本人が勤勉に働いていた様が語り継がれていた。

「父はここで眠るのが一番幸せだと思いました」

中山大使は「誰もがお参りにいけるようにお墓を整備したい」と思ったが、作業に取りかかる前に、まず埋葬者の遺族の意思を確認することとした。日本に遺骨を持って帰りたい、という人もいるのではないか、と思ったからだ。

遺族を探し出すのは難儀したが、「父の遺骨をどうしても日本に持って戻りたい」という人が見つかった。とりあえず現状を見てみたい、とのことで、元抑留者たちと一緒にウズベキスタンにやってきた。

その人の父親のお墓は、コカンド市にあった。地元の人々が赤い鳥居を立ててくれている。その人は墓地を訪問した後、中山大使にこう語った。


ウズベキスタンまで来て本当に良かった。父はここで眠るのが一番幸せだと思いました。お墓を訪ねたら大層綺麗になっていた。お花を飾ってくれていたし、箒(ほうき)の目まで立っていた。そして、周りにいたウズベキスタンの人々に話を聞いたら、みんなが「ここで働いていた人達は本当に優れた人達だった。尊敬している。だからお墓を守っている」と話してくれた。



父が、みんなに、こんなにまで温かく見守られているとは思ってもいませんでした。父の遺骨を日本に持って帰るために、兄弟で少しずつ貯金をしてきました。でも、日本に帰ったら、兄弟達にきちんと話をして納得してもらいます。



父はきっと、ここで仲間達と一緒に眠るのが一番幸せなのだろう……そういうふうに感じたからです。そして、貯めてきたお金は代わる代わるお墓参りに来るのに使いたいと思います。

こうして、元抑留者や遺族の間では、「遺骨を日本に持ち帰るより、戦友達と一緒に、ウズベキスタンの人々に温かく見守られながら、ここで眠るのが一番いいだろう。それに反対する人は関係者の中にはいないだろう」という結論となり、墓地整備に踏み切ることになった。


次ページ>>多くのウズベキスタン人ボランティアが墓地整備に参加
「日本人墓地の整備はウズベキスタン政府が責任を持って行う」

こうして大使館側では資料収集を始め、また日本側でも呼応して募金活動が始まった。約2,000万円の浄財が集まり、整備の目処がついた所で、ウズベキスタン政府に日本人墓地の整備をしたい、とお願いした所、スルタノフ首相からすぐに返事が返って来た。


ウズベキスタンで亡くなった方のお墓なのだから、日本人墓地の整備は、日本との友好関係の証としてウズベキスタン政府が責任を持って行う。これまで出来ていなかったことは大変恥ずかしい。さっそく整備作業に取り掛かります。

対外経済関係省が中心となって、墓地整備の作業が始まった。同省のエリヤル・ガニエフ大臣が自ら各地の墓地を訪れて、「ここに車が通れる道を作れ」などと具体的な指示をした。

それぞれの地域では、住民達が集まって石を切り出し、磨き、垣根を作り、墓石の周囲になるべく雑草が生えないように砂利を敷き、丁寧に作業を進めてくれた。政府の声がかりがあるとはいえ、多くの人がボランテイアで参加してくれた。

各地域で大勢の人々が作業に参加したため、1年ほどで全ての墓地整備が完了した。白い墓石が並び、それぞれの墓地に「鎮魂の碑」、4つの市に「抑留者記念碑」も建立された。

「ここに桜を植えたい」

墓地整備が進んでいる最中にも、中山大使は最初に訪れたベカバード市の墓地の殺風景な光景が忘れられなかった。


亡くなった当時、ほとんどが20代、30代の若者でした。何とかして日本に帰ろうと耐えていたことでしょう。日本を思って毎日を過ごしていたに違いありません。帰郷がかなわず50数年間訪ねる人もないまま、日本から遠く離れたウズベキスタンの地で眠っているのです。



周囲の墓地には、木が大きく育ち墓を守っています。野原のような殺風景な日本人墓地に立った時、ここに桜を植えたいと強く思いました。春になれば綺麗な花を咲かせてくれるだろう。何年か経てば太い枝が墓を覆ってくれるだろう。きっと異国の地に眠る霊達も喜んでくれるに違いない。

そこで中山大使は、集まっていた募金の一部を桜の苗木に使えないか、と協力者たちに相談した。元抑留者からも「抑留されていた頃、もう一度日本に戻って桜の花を見たいと思って頑張った」という話も出て、皆、大賛成だった。

ウズベキスタン側からも、「建設中のタシケント市の中央公園を日本の桜で埋められないだろうか」という提案があった。こうして冒頭に記したように、各日本人墓地とともに、中央公園とそれに続く大通り、大統領官邸、ナヴォイ劇場などで、合計1,300本もの桜の苗木を植えるという国家的大事業が始まったのである。


次ページ>>墓地整備でさらに確かなものとなった両国の「絆」
「ふるさと」の歌

2002(平成14)年春には全ての墓地整備が完了し、白い墓石が並び、いつでもお線香をあげてお参り出来るようになった。それぞれの墓地に「鎮魂の碑」、4つの市に「抑留者記念碑」も建立された。

同年5月、鎮魂の碑と抑留者記念碑の除幕式に日本から麻生太郎日本・ウズベキスタン自民党友好議連会長、中山成彬同事務局長はじめ、遺族、元抑留者、ボランティアなど多くの人々がタシケントに集まった。

式の後で3つのグループに分かれて、各地にある全ての墓地を訪ね、花を供え、お線香を焚いて、時には日本酒を注いでお参りをした。誰からともなく「ふるさと」の歌が流れ、全員が声を合わせた。人々の頼に涙が伝った。

鎮魂の碑や抑留者記念碑の費用は日本で集まった募金で賄ったが、実際に石を切り出し、墓石を磨き、道を造り、桜を植えてお墓の世話をしてくれてたのは地元の人々だった。ウズベキスタン側はそうした作業にかかる費用について、本来、自分達がやるべきことだからと一切受け取らなかった。

それではと墓地整備のためとして全国から寄せられた募金で、13カ所の日本人墓地の地域の学校に日本製のコンピュータを寄付した。教育熱心なウズベキスタンの人々は大変喜んだという。

この春も、ウズベキスタンの桜は見事な花を咲かせたろう。墓を護ってくれているウズベキスタンの人々とともに、墓地に横たわる日本の抑留者たちも、美しい桜の花を愛でながら、遠い祖国の山河に思いを寄せたことだろう。

文責:伊勢雅臣
『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』
著者/伊勢雅臣
購読者数4万3千人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。
http://www.mag2.com/p/news/172940

【書評】騙されても信義を守る。日本人が世界から尊敬され続ける理由
2016年3月6日
近年、「日本は世界に比べていかにダメな国か」という論調を耳にしますが、これに異を唱えるのは無料メルマガ『ビジネス発想源』の著者・弘中勝さん。1冊の本に紹介されている、異国で今なお尊敬され続ける我々の祖先のエピソードを取り上げながら、なぜ日本人が海外で評価されてきたのかを説いています。

海外に誇れる信義

最近読んだ本の内容からの話。

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して敗戦を迎えたが、その直前の同月8日、日ソ不可侵条約を反故にしてソ連が満州などに侵攻し、武装解除した日本人を強制的に連行、いわゆるシベリア抑留を行なった。

ウズベキスタンの首都タシケントに住むカリモフ少年は、日本人の収容所に連れて行かれたとき、日本人抑留者たちの姿を見ながら母親に言われた。

「ごらん、彼ら日本人は捕虜であるにもかかわらず、ロシアの兵隊が見ていなくても働いている。人が見ていなくても働いている。おまえも人が見ていなくても働くような人間におなり」

ウズベク人は、同じアジア人である日本人たちに対して、ソ連の圧政に反発していたというだけでなく、抑留者という立場であるにもかかわらず反乱を起こすことなく労働に勤しんだ勤勉さに感銘を受けて、非常に同情的だった。

タシケントに、バレエやオペラの鑑賞ができるナヴォイ劇場が建設されることになったが、その建設作業に回された日本人が現場で資材を見て、「こんなものを使っていたら、この劇場は200年もしないうちに壊れてしまうぞ!」と怒り出した。ものづくりに対する日本人の意識の高さが、現地のウズベク人に浸透し、やがて尊敬の念に変わり、ナヴォイ劇場はわずか2年で完成した。

それから約20年後の1966年、タシケント地震が発生し、数々の建築物が倒壊し、30万人もの人々が住まいを失う大惨事となった。しかし、市内の建造物が軒並み倒れていく中、日本人が建設に関わったナヴォイ劇場は、まったく崩れずに堂々と建っており、日本の技術力の高さの証明になった。

「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」

ナヴォイ劇場の壁には、日本語でそう刻まれたプレートがある。1991年にウズベキスタンが独立を果たした時、初代大統領に就任したカリモフ大統領が、少年時代に収容所で見た日本人抑留者たちを尊敬して、このプレートの設置を命じたのである。

抑留されて亡くなった日本人は812名だが、ソ連は日本人の墓を許可しなかった。しかし、ウズベキスタンは、この命令に背いて日本人の墓を大切に守ってきた。ウズベキスタンの独立後、日本政府は墓地の整備を願い出た。すると、ウズベキスタン側は、墓地の整備は友好関係の証としてウズベキスタンが責任を持って行なうという返答があった。

さらに、ウズベキスタン側から中央公園に桜を植えたいとの申し入れがあり、日本人墓地や中央公園などに寄贈された桜が植えられ、両国の友好の証として、毎年きれいな花を咲かせている。


次ページ>>これからの日本の発展に必要なものとは?



出典は、最近読んだこの本です。日本と諸外国の知られざる交流秘話をまとめた1冊。日本という国にとても誇りを持てるエピソードが満載です。

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「日本人が知らない世界中から愛される日本」(井沢元彦・會田有璃 著/宝島社)

「日本は世界に比べていかにダメな国で、いかに日本は世界の下っ端なのか」という論調をこの日本で振りかざす外国かぶれの有識者がものすごくたくさんいます。でも、日本を好きだという国、日本を尊敬しているという国は、日本人が思っている以上にたくさんあります。

それは、日本人の祖先たちが築いてきた信念、日本人たちの中で育んできた精神が成したものであり、我々は、我々の祖先たちに対して、大きな感謝の気持ちを持たなければなりません。そのためにはまず、日本という国に誇りを持つことです。

「日本はいかにダメか」
「日本はいかに間違っているか」

という話ばかりしても、何の発展もありません。それは、日本人にしかできないことがあり、日本人しかやっていないこともあり、それらは海外のケースでは参考にならないからです。

確かに海外の学術や技術には日本にはない素晴らしいものがあります。しかし、かつて「和魂洋才」という言葉があったように、海外のさまざまな学術や技術は取り入れても、日本という国への誇りと日本人であるという信念は常に忘れないようにしなければなりません。

いくら社会がグローバル化していったとしても、日本人だからできること、日本人だからやるべきことは、たくさんあるのです。そのためには、たとえ騙されようが、損失を被ろうが、祖先たちが海外の人たちに評価されたように、「外国に対して恥ずかしくないように、信義を守る」ということを忘れてはなりません。

では、外国に対して恥ずかしくないように信義を守る、とはどういうことなのでしょうか。一度しっかり考えてみたいものです。

【今日の発想源実践】(実践期限:1日間)
•自社が「諸外国の人たちにも恥ずかしくない」ような経営をしたり商品を出したりするということは、どういうことをしておくべきか、どういうことをしてはならないのか、自分の考えをノートにまとめる。
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