アメリカの政治思想の変遷(その1)(その2)(その3) | 日本のお姉さん

アメリカの政治思想の変遷(その1)(その2)(その3)

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成28年(2016)4月10日(日曜日)弐
通算第4868号

アメリカの政治思想の変遷(その1)
  風はトランプに吹き、ヒラリー・クリントンには逆風が
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▼「ネオコン」って何だった?

 大統領選挙予備選、いよいよ中盤戦、風はトランプに吹いている。
 ところで、鳴りを静めているネオコンは何を考えているのだろう?
 ブッシュ・ジュニア政権では大統領の周囲をぐるりと囲んで、外交、安全保障政策を影で牽引したネオコンは、「強いアメリカ」の推進者でもあった。

 対テロ戦争の主導権も彼らがとった。
 ネオコンの思想的総帥格と言われたアービン・クリストフは元トロッキストからの転向で根っからの保守主義ではない。キリスト原理主義に基づくエバンジュリカルとは一線を画した。
彼は米国社会主義労働者党に1939年に入党した。しかし過激な社会主義ゆえにソ連の失敗と非人間性に反発し、保守主義に衣装替えした。左翼はこの一点を演繹し「ブッシュの周りを囲むネオ・トロッキストらが唱える『永久革命』は『永久征服』だ」などと皮肉った。
 
日本の知識人の間でも激越に議論されてきたのは「転向」の問題だろう。
 共産主義の誤謬を素直に認め、日本主義に転向した人々には様々なタイプが存在し、あっけらかんと転向した吉本隆明、清水幾太郎の例が示すのは本人の心構えである。じめじめとした転向はこころも晴れない。

 転向というより獄中にあって日本の美しさを発見して革命幻想から醒めたひとたち。「日本回帰」の表現が正しいタイプと思われるのはは林房雄、浅野晃といった浪漫派の系譜に多い。田中清玄、水野成夫、徳間康快ら。転向の「屈折」や「反省」が大きすぎる辻井喬(堤清二)や、大問題となった佐野学らの転向も話題を呼んだ。近年では60年安保以後の唐牛健太郎、西部遭に象徴される。米国のネオコンの転向もタイプは様々で、だから機関誌も幾つかの流派に分かれ、統一された組織も行動もないが、通底しているのは誰にも湿り気がなく、意気軒昂としていることだ。
 
 米国の左翼リベラルなメディアはブッシュ政権発足以来、一貫してこの「ネオコン」を目の敵として非難・攻撃してきた。

 嘗てブッシュ・ジュニア政権内にはチェイニー副大統領(ディック)、ラムズフェルド国防長官(ラミー)、ウォルフォウィッツ国防副長官(ウォルフィー)の「タカ派三羽烏」がネオコンを象徴したと言われた。しかし前者二人は強硬派に違いないが、保守本流の現実主義者であって、ネオコンではない。

前国防長官顧問(国防政策委員会委員長)のリチャード・パールやダン・クエール元副大統領など「政権」と「実業界」の中間にいる政治的人脈も同じカテゴリィに入れられたが、まったく異なる人脈である。 
「彼らは9・11テロ事件より遙か以前からイラク戦争を準備し、主唱し、組織化し、政権を突き動かした。次にシリア、イラン、北朝鮮征伐だと息巻いている。彼らとはディック、ラミー、そしてウォルフィーだ」(「サンフランシス・コクロニクル」、03年4月4日付け)という分析は大雑把すぎるうえに基本の定義が間違っている。 
 

 ▼ネオコンになぜユダヤ人が多いのか

ユダヤ人が多いのでネオコン=シオニストという同一視反応を読者に植え込もうと躍起だった。ネオコンには転向組が多く、ユダヤ人も多い。となれとどうしても一方的なプリズムがかかりやすい。日本のマスコミは短絡的なアメリカ思潮の亜流だから、同じ分析がやたら目に付いた。
つまりネオコンは正しく評価されていなかった。当時、筆者はネオコンの正体を詳細に論じたことがある(拙著『ネオコンの標的』、二見書房を参照)。 
 
 ともかくマスコミの分析は消化不良で、報道と実態とは天地の隔たりがある。いまの主要メディアのトランプ叩きも似たようなところがある。もっとも極右とかヒトラーとかのレッテル張りは政治につきもののプロパガンダ戦争の戦術ではあるが。。。。

「ネオコンとブッシュはバカ」と短絡に扱う書籍は、日本ばかりか米国でもベストセラー入りした。
たとえば左翼の映画監督マイケル・ムーア「アホで間抜けなアメリカ白人」(柏書房)、極左の思想家チョムスキー「9・11ーーアメリカに報復する資格はない」(文藝春秋)、グレッグ・パラスト「金で買えるアメリカ民主主義」(角川書店)など。
しかしムーアとかチョムスキーとか、米国では「極左」の変人扱いで、保守層の知識人は誰も相手にしていない。

 滑稽だったのは「ネオコンはユダヤの陰謀に加担している」(ドビルバン仏外相)などと事実無根の批判を伴うのも特徴的である。またユダヤ人が割礼の風習を持つことを引っかけて「割礼の枢軸」とも。

 奇妙なことに、このリベラル派からの攻撃と超タカ派の領袖=パット・ブキャナン(元ニクソン大統領側近)が同じことを言う。
 基本的に両者は米国政治における水と油の化学式で描ける関係にあり、イラク戦争の世論形成のときのような一時的な「呉越同舟」はあっても、相互不信は抜きがたく、決して和合することはない。ネオコン攻撃は米国内のリベラル派が計画的に仕組んでの巧妙な世論工作だったのである。

 現在の構図にあてはめるとテッド・クルーズなどがネオコンにやや近いが、保守本流のルビオとは水と油の関係であったように。
 
 第二はネオコンの多くが80年代初頭に共産主義に失望したリベラルからの転向で占められたため、リベラル派には近親憎悪が潜在心理にあり、このため批判は憎しみと執拗さが特徴的となる。
この点は数こそ減少したが、草の根運動を指導する活動家に目立つ。日本でも市民運動、反原発、安保法制反対のシールズなど、偽装組である。

 第三はレーガン革命の主流だった「ニューライト」や「保守本流」から見れば、庇を貸して母屋をネオコンに乗っ取られた格好で、面白くない。それで保守本流からもネオコンへのどぎつい批判が起きた。正確なネオコンの定義、その動きに関しての情報分析と把握が、日米同盟を基軸とする日本の将来に重大な意味を持つ筈だったのに不勉強なメディアは徒にネオコンを批判しただけで終わった。
 いま、このネオコンは旧ソ連圏の東欧に進出し、各国で民主団体などと連携し、むしろ米国より欧州で影響力を行使している。
 (この項、つづく)
アメリカの政治思想の変遷(その2)
  米国に根付く四大政治思想の流れを追うと
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▲アメリカを揺さぶる四大思想
 
 米国外交評議会のウォルター・ミード主任研究員は「米国では四つの政治思潮が、お互いに争って米国外交を決定してきた」として次のような分析をしている。

 (A)「ジャクソン派」=司令官としてインディアンと壮絶に戦ったアンドリュー・ジャクソン(第七代米国大統領)は、「ユニ・ラテラリズム」(一国中心主義)の信棒者だった。 
グローバリズムに反対し、米国一国が団結すればそれでいい。だから攻撃されると強く団結し、戦争遂行では相手の無条件降伏以外ないという考え方だ。
 圧倒的な草の根ポピュリズムに直結しており、「イラクをやっつけろ」が米国世論となってブッシュは突っ走った。9・11テロ事件以後の米国を覆ったのはジャクソン思想である。
 この考え方はトランプにもっとも近い。

 (B)「ウィルソン派」=人権、民主主義などの価値を重視するためこれらの理想、米国的価値観を海外へも積極的に拡大しようとする。普遍的イデオロギーを重視するため国益優先ではない。「人権」では中国と衝突を繰り返した。ウッドロー・ウィルソンはあまりに理想が高く国内政治には不向きだった。
 クリントン、オバマ政権の外交政策の基本的性格はこれである。
いまの反戦デモに参加している多くのアメリカ人も、このウィルソン派の末裔とみていいだろう。

 (C)「ジェファーソン派」=「国内派」で自由も民主主義も米国国内のみで守りたい。海外には過度に関与すべきではないとする考え方。この考え方を代弁するのが「アメリカン・ファースト」を唱えたパット・ブキャナンなど、現時点では少数派である。しかしアメリカ人は孤立主義に陥りやすく間歇的にこうした思想運動が爆発する。トランプの考え方はこのジェファーソン思想とも重なる。

 (D)「ハミルトン派」=初代財務長官ハミルトンは、「大英帝国のような巨大な商業国家となり、経済的繁栄が重要だ」とした。グローバルな制度(WTOやNAFTAなど)に参加すれば米国は富み、繁栄が続く。経済力が大きければ軍事力を維持できるし、最高レベルの武器を開発保有できる。軍事帝国を崩壊させた悪例は真似るべきではない。地域的バランスを取れば良いという考え方。まさにレーガン、ブッシュ政権を支え、ブッシュ・ジュニア政権を支えたアメリカ外交の神髄である。
 
つまりグローバリズム、TPP推進という思想に拡大してきたわけで、オバマ政権の通商政策を背後でささえるウォール街の考え方、これはトランプも局所的には信奉しているが、TPP反対の秦を振るなど矛盾したところがある。

 この分析に従えばネオコンはジェファーソン派的思想ながら、ウィルソン的行動をとる。共和党主流のハミルトン的現実主義からは、相当の距離を置いた存在になる。


 ▼くわえて共和党には四大派閥がある。

 主流はジョブ・ブッシュ、ケーシック、マルコ・ルビオらが率いる保守本流、即ち通商拡大派である。
さきの分析で言うハミルトン派である。ここに宗教右派(テッド・クルーズら)、ネオコン、保守派の三派が加わり、時にA派、B派が合従連衡、時にC派、D派が呉越同舟となる。

 一方、民主党は各派がてんでバラバラとなって収拾がつかない状況に陥った状態から立ち直りオバマ政権の再選には協力したが、2016年大統領選挙となると、保守的なクリントン(彼女はハミルトン派だ)に強く反撥する草の根リベラル派が、バーニー・サンダースを推して鋭角的に対立した。

 基本的には海外の紛争に介入か、不介入か。シリア支援か反対かでキリスト教の世界に四分五裂が起きた。
 当時、プロテスタント系の「南部バプテスト協議会」(創設者・リチャード・ランド師)と「サマリア人の財布」(フランクリン・グラハム会長、福音主義派)はイラク国内での人道支援に乗り出した。戦争前から国境に近いヨルダンに拠点を開設し、食糧・医療支援体制を整えていた。

 イラク支援の目的は、イスラム教徒が圧倒的なイラクでキリスト教を宣教することだった。米国の宗教界でも、イラク戦争を福音派の多くは支持した。しかしメソジスト教会などのプロテスタント主流派とカトリックの東ローマ系正教会派は反対に回った。

 また福音派の伝道師らとユダヤ教の指導者がワシントンで「イスラエル支援強化」と「イラク戦争支持」の大会を開催したところ、アシュクロフト米司法長官(当時)をはじめ共和党議員が多数駆け付ける一幕もあった。アシュクロフト司法長官は記念講演で「イラク戦争は(イスラエルにテロ行為を続ける)ヒズボラ、ハマスなどのテロリスト・グループからの脅威を阻止するためでもある」と語った。

 「南部バプテスト協議会」の創設者、リチャード・ランド師は「福音派キリスト教会によるイスラエル支援の歴史は長い。われわれは、神がイスラエルの地を永遠にユダヤ人に与えたと信じている。彼らは神の選民だ」と述べた。
 こうしたエバンジュリカルのユダヤ教への異常接近を、選挙プロは穿った分析をしていて、「ユダヤ教とキリスト教福音派が緊密になるのは民主党支持のユダヤ票を共和党が切り崩す狙いがある」としたものだった。

 ▼真珠湾攻撃を逆利用したFDR

 第二次世界大戦まで米国の政治を覆っていたのは孤立主義、他の国々で何が起ころうともアメリカ人は国際政治に関心を持とうとはしなかった。
 日本の真珠湾攻撃が米国の孤立主義を転覆させた。
 今日の歴史学では常識となりつつあるが、当時の大統領ルーズベルトは日本の真珠湾攻撃を事前に知っていながら故意に放置し日本軍の奇襲を待っていた。

奇襲の衝撃はアメリカ人の怒りを組織化出来る。
国論を右から左へ一夜にして転換出来る。こうした劇的なことでもない限りアメリカでは国内に閉じ籠もろうという孤立主義が国際主義へと転換することはあり得ない。その意味では9・11テロ事件に酷似するのである。

 ISのテロリズム、パリ襲撃事件、16年3月22日にブラッセルを襲った同時テロ、そして夥しい難民。これらがアメリカの常識を変え、トランプ現象を産んだように。
 1941年12月7日、チャーチル英首相は、真珠湾攻撃を聞いてルーズベルト米大統領に電話して言った。「これで我々は同じ穴の狢だ」。

 イギリスは米国の参戦をいまかいまかと熱烈に待っていた。クエートへのイラクの侵略が91年の湾岸戦争を組織化したように、或いは9・11テロ事件が米国を揺さぶり反テロ行動へ突っ走ったように。

 第二次大戦後、米国は孤立主義から自由と反共のための国際協調路線に傾いた。
朝鮮戦争への参戦、ヨオロッパには経済援助とロシア共産主義の脅威に対抗してNATOを結成し、大軍を駐屯させる。

 1950年代の米国の保守思想を代弁したのは雑誌「アメリカン・コンサーバティブ」で、国際的規模の平和を希求し、そのための米国の役割を説いた。ウィリアム・バークレーは「ナショナル・レビュー」誌を創刊し、保守思想の構築に拍車をかけた。多くの若者たちが保守運動に集まり、やがて1964年、バリー・ゴールドウォーターが大統領選挙へ立候補するまでになる。

 だが戦後19年の米国で社会は大きく変わっていた。ゴールドウォーターは敗北した。米国世論は多様化していた。ニューヨークのリベラル知識人や左翼が巻き返しケネディ政権とジョンソン政権を支え、このときも保守派は主流から外された。


 ▼『アメリカン・コンサーバティブの下士官達』 

 爾後、地下水脈に根付きはじめるのが新保守主義のチャンピオンとなるアービン・クリストフらだった。ベトナム戦争の泥沼、敗北で打ちのめされ、やがてボート難民が大量にでると社会主義の破産を西側は知る。

 70年代央からネオコンの萌芽とも言える主張が固められ、「小さな政府」「強い軍隊」「減税」という、やがて80年のレーガン革命を導く考え方に、旧保守主義が軌道修正されてゆく。

 グレゴリー・シュナイダーは当時、『アメリカン・コンサーバティブの下士官達』というベストセラーを書いてレーガン革命に応援歌を送った。

 74年のニクソン辞任をうけて登場したフォード政権は議会、マスコミが総すかんのなかで立ち往生、僅か2年後には南部ピーナッツ農園主だったカーターに大統領の座を明け渡さなければならなかった。
この間にザイール、モザンビーク、ジンバブエなどが「赤化」しても、米国は手も足も出せなかった。

 戦闘的な保守主義運動に多くの若者が集まり、80年代のレーガン保守主義は「強きアメリカ」と「自由貿易」を旗印にし、世界貿易の拡大が富をもたらすという通商派や共和党穏健派を多数政権に取り入れた。
つまり保守、超保守、通商拡大派、右翼の「連合政権」の色彩が強く、レーガンの個人的魅力で各派のバランスが巧妙にとられた。
 新保守思想は、当時「ニューライト」と言われ、保守系シンクタンクはCSIS(世界戦略研究センター)、AEI、ヘリティジ財団などが花盛りとなった。

 この超派閥的な挙党態勢への動きが、今回の共和党には見られない。トランプ現象と、レーガンの地すべり的大勝への流れとは基本的に性格が異なる。

 1981年、とくに衆目の的になったのは大量の人材をレーガン政権へ送り込んだニューライトの牙城、有力シンクタンクの「ヘリティジ財団」だった。同財団は新興シンクタンクにも拘わらず、軍資金も人脈も豊富で、考え方はレーガンの基層とぴたり呼吸が合っていた。同財団のスポンサーはクアズビールや、AIGだった。
 このとき若手の理論家はビル・シュナイダー(のちに国務次官)、ケネス・エーデルマン(のちに国連次席大使)などだ。

 スター的存在はジーン・カークパトリックだった。
ジーンは嘗ての有名な民主党員でリベラルを代弁する論客だったが、大統領選挙の最中にカーターの弱腰外交を批判して注目を集め、しかも共和党に乗り換えた「転向」行為が全米規模で著名人に押し上げていた。
ジーンの人気ぶりに目を付けたレーガンは、彼女を国連大使に迎えた。これは一種の非主流派の不満を宥めるガス抜き人事だが、政治現場にはじめて「ネオコン」の嚆矢が芽生えた。
 以後、民主党からの転向がつづき、「レーガン・デモクラット」(民主党なのにレーガン支持)と言われる巨大なグループが形成されていく。この頃、筆者はワシントンやニューヨークで、これらニューライトの若者たちと議論したが、哲学的な深みを感じたことは一度もなかった。

 パパ・ブッシュ政権(89-93)になると理想、道徳を重んじる保守思想より、現実主義的色彩と通商拡大派が共和党の多数派を占め、むしろレーガン革命を下支えしてきた保守主義は非主流派へと追いやられる。ニューライト冷遇時代だ。

 パパ・ブッシュはテキサスでの石油ビジネス仲間のジム・ベーカーを信頼しており、レーガンのまわりを囲んでいたニューライトとはじつは肌が合わず、宗教右翼とも一歩の距離を置いた。
 パパ・ブッシュの基礎的な考え方は現実主義であり、イデオロギー的理想主義は二の次、ますは商いを優先させて繁栄を勝ち取ろうとする通商拡大派なのだ。

 従ってAEIはもちろんのこと、ニスカネンの「CATO研究所」やプレストウィッツ「経済戦略研究所」などの、通商拡大を目標の自由貿易派シンクタンク群が、ニューライト、ネオコンを退けた。

この手痛い党内分裂は、四年後のパパ・ブッシュ再選を阻害し、以後クリントン政権の八年間、共和党は沈没、ネオコンは雌伏を余儀なくされた。
 クリントン政権の八年間で米国は道徳的に荒廃し、フェミニスト、ジェンダー、セックス教育、ゲイ、健康保険などで、全米が二分化する「対決」「対立」の政治を産んだ。
 クリントンは過激左翼を政権と与党内に抱え、リベラル派が跋扈したため、国民的支持の激減に対応するため不得手の外交で点を稼ごうとした。

 自らのセックス・スキャンダルの醜聞を隠蔽する目的もあって突然、イラクの飛行禁止区域でミサイル基地を爆撃させたり、ユーゴスラビアには五千メートル上空からの介入、アフガニスタンにも50発のトマホーク巡航ミサイルと撃ち込むなど「場当たり」をやってのけた。

 なにしろホワイトハウスの実習生モニカ・ルインスキー嬢との関係も「あれは挿入しなかったからセックスではない」などの詭弁で大統領弾劾を逃れた。
「倫理の乱れ」「道徳の荒廃」という時代的特徴をビルクリントン大統領自身が代弁した。
   (つづく)
アメリカの政治思想の変遷(その3)
民主主義システムがなぜ独裁を産むのか?
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▼エドモンド・バークとトクヴィル

1983年、レーガン政権のときにアジア各国からジャーナリストを各二名を米国政府が招待し、一ヶ月カリフォルニア州クレアモントで学生寮に泊まり込み、連日アメリカの政治、社会、歴史、民主制度を討議するプログラムが実行され、著者もその一人として米国に招かれたことがある。

中国を除き、アセアン十ヶ国に豪州、韓国、台湾から合計30名近いジャーナリスト、政治学者が集まり、連日連夜議論に明け暮れた。 このとき招待元のクレアモント研究所が用意したテキス
トがエドモンド・バークとトクヴィルだったのである。クレアモントはピーター・ドラッカーがすんでいた。

毎晩のようにこの二人の名前が議論にでてきたので、いささかうんざりして記憶がある。

トクヴィルはアメリカ政治を最初に科学的社会工学的に分析したフランス人として知られ、アメリカ政治、歴史、文化論を専攻する学者、学生は必ず引用したりする重要作品を残した。

ちなみに中国でも王岐山(政治局常務委員、反腐敗キャンペーンの責任者)が就任早々に、トクヴィルを読めと周りに勧めたことは有名な話である。蛇足だが王岐山がそのときに日本人学者で参考にするべきはと問われて岡田英弘と答えた。

さて、民主主義なるシステムは人類が生み出した最良の政治システムではなく次善の制度である。
最良な制度は賢人政治だが、アリストテレスもプラトンもソクラテスもいない世界では無縁のファンタジーに近い。

民主主義はワイマール共和国が内部から全体主義に崩れていったように、「民主的な手続きで民主主義を放棄することに同意できる」という脆弱性を内包している。すなわち有権者の過半が「民主主義をやめる」ことに同意すれば、ヒトラーが登場したように個人に権力が集中したり、あるいは反対派派を排除したりすることが「民主主義」の名のもとに正当化される。まさに「民主主義の逆説」である。

だから少数派、過激派がトランプに対しての罵詈雑言は、ヒトラーになぞらえることなのだ。歴史の教訓を見よ。かつてのローマのカエサルは民主的手続きを経て皇帝になった。フランス革命では民主革命を呼号して反対派を粛清し、その反動があり、フランス革命とは血を地で洗う暴力の結末を迎えた。まさに当時の民主主義の裏側は「ギロチン・ゲーム」だった。
ナポレオンもやがて「独裁者」としてフランスに君臨した。フランス国民はナポレオンを英雄として祀った。

現在のアメリカ人は連邦議会の優柔不断、オバマ大統領の決断のなさに不快と不信感を抱き、「英雄的な指導者」を待望するというディレンマに陥っていた。だから自らの心理と強い指導者のイメージを振りまくトランプを一体化させ、強い指導者像を重ねるという一種の幻像、錯覚に陥る。

民主主義の発達によって人々が抑圧される弊害が往々に起こりうるのは、エドマンド・バークが指摘している。

すなわち「民主主義の最大の危険とは多数派が少数派に対して残酷な抑圧を行使できるのであり、事態がここまで悪化すれば、暴力で殺し合うフランス革命が再現される。それも民主主義のもとで。

「多数派が正しい」という価値観の浸透は「少数派は誤っている」という判断にとなり、少数派を徹底的に排除する危険性を伴う。

フランス革命では「反革命的」とみなされた少数派は「極悪人」として、次々と断頭台の露と消えた。すなわち倫理的、道徳的な価値を二の次にして主張を通そうとすれば、それは少数派抑圧の合法化につながり、ひいては非人道的な行為も合法化される。


▼アメリカのデモクラシーとは

日本の政治学教科書が教える民主主義は「最大多数の最大幸福」である。
これが日本の場合には聖徳太子以来の和の精神があるため、つねに少数派の意見も尊重される。過半数を抑えているのに自民党は野党の意見を尊重するように。

しかし米国では「Winner takes All」(勝者総取り)がルールであり予備選であれ大統領選挙であれ、いや社会一般から企業人事に到るまで、勝者がすべてを獲得するという制度が合法化されている。

1831年、フランスから視察目的で米国にやってきたのがトクヴィルだった。
トクヴィルは米国のあちこちを旅行し、人々の意見を聴き、生産現場を観察し、議会を視察し、それらの見聞をまとめ、『アメリカのデモクラシー』を著した。この本は古典となり必読文献であることは述べた。
トクヴィルの関心は、「アメリカでは民主主義が発達したと言われるが、フランス革命以後のような『多数派の専制』がなぜ生まれないのか」という点にあった。そこで彼が着目したが米国における「住民の自治」という見えにくいシステムだった。

アメリカにおける「平等」という概念は、封建制と身分制をパスしていたため、アメリカでは人間が「平等」であることは自明の原則だった。なにしろ連邦国家でありながら、開拓時代のアメリカは中央政府が十全に機能しておらず教会も待合いも、学校も道路も、自治によって決定し、実施された。住民自治という習慣は、相手を人格的に否定したり、たとえ意見の違いがあっても、相手の生命や尊厳を脅かすことはいけないという自覚が生まれ、自治の決定が尊重される伝統がうまれた。


▼「多数者の専制」

トクヴィルはアメリカの普遍的価値観を評価しながら、一方的に賞賛しなかった。それはフランスのクロムウェルのようなあからさまな「多数派の専制」に陥ることはなくても、表面的には平和で繁栄した社会にみえても、舞台裏には真綿で首を絞めるような、隠微な「多数者の専制」があると見抜いたのだ。

実際にその預言はあたった。1920年代の禁酒法、現代の禁煙権の蔓延は明らかに多数派の専横であり、1950年代のマッカーしー旋風もそうだろう。
いや日本に戦争を仕掛け世論を操作し、シナ大陸の権益を狙った狂気の大統領FDRを産んだのはアメリカ人ではないか。

こうした「狂気」が循環的に米国の政治を席巻することがある。
卑近な例がFDR(フランクリン・ルーズベルト)である。ルーズベルトはいったい何のために日本に戦争を仕掛けたのか?

当時、FDRの最大の政治ライバルだったハミルトンが怒りを込めて告発した本は日本でも翻訳がでている。それはハミルトン・フィッシュ、渡邊惣樹訳『ルーズベルトの開戦責任』(草思社)で、戦後、GHQが押しつけた『太平洋戦争』史観を転覆させるに十分な決定版とも言える書籍だ。真珠湾攻撃がルーズベルトのしかけた陰謀による行為だったことは、いまや歴史学界における常識となりつつある。

ところが米国ではまだそうした真実を述べると「修正主義者」のレッテル貼りが行われる。日本の卑怯な奇襲という位置づけ、直前の「ハルノート」をFDRは巧妙に隠したが、事実上の対日最後通牒だった史実は徹底的に無視され、米国史学界ではまだルーズベルト陰謀論は主流にはなっていない。

以下は前にも書いたことがあるが、反復すると、ルーズベルト大統領の最大のライバルで、「大統領が最も恐れた」議会共和党の有力者ハミルトン・フィッシュはオランダ系移民の名家、FDRの住居のあるNYが、彼の選挙地盤でもあり、実はふたりはそれまでの二十年間、仲が良かった。

共和党の重鎮でもあったハミルトンがFDRと袂を分かったのは、移民によって建国された米国は不干渉主義の国であり、しかも欧州で展開されていた、あの血なまぐさい宗教戦争に嫌気がさして新天地をもとめてきたピューリタンの末裔が建国した国であり、その理想からFDRの開戦準備はおおきくはずれているとして、正面から反対したのだ。

しかし、本当のことを知るのはFDRの死後である。ハミルトン・フィッシュは、この『ルーズベルトの開戦責任』をFDRならびに関係者の死後まで辛抱強くまち、さらに祖国の若者がまだ戦っているベトナム戦争の終結まで待って、ようやく1976年に刊行したのだ。そして日本語訳はさらに原著刊行から38年、じつにFDRの死から70年後、第一次世界大戦から百年後になってようやく日の目を見たのだった。

ルーズベルト大統領が議会を欺き、真珠湾奇襲の翌日に開戦を議会に求めて、これには当時の共和党指導者としてのハミルトンも賛成演説をせざるを得なかった経緯が詳述されている。米国の不干渉主義は一夜で覆った。


▼熱病のような危険なムードが米国を蝕むと

けっきょくヤルタの密約で東欧、満州、そして中国を失った米国の悲嘆、FDRはいったい何のために参戦したのか、国益を損なったという怒りをハミルトンが告発したわけだが、「なにがなんでも戦争をしたかった」のがFDRだったのだ。

第一はFDRがおこなったニューディール政策が完全に「失敗」していたという事実を把握しなければならない。このため社会主義者、共産主義左派がホワイトハウスに潜り込み、「訳の分からない組織が乱立した」

使い放題の資金をばらまく組織が社会主義者らによってオーガナイズされ、それでも経済不況は終わらなかった。猛烈にFDRは戦争を必要としていた。ウォール街の利害とも一致した。

FDRは「スターリンの友人であるとのべていた。スターリンは世界最悪の殺人者である。FDR自身は確かに共産主義者ではない。彼はキリスト教を信じていた」

ところが、周辺にはコミンテルンのスパイが周到に配置されており、FDRの展開した「政策は間違いなく社会主義的であり、我が国の集産主義化あるいは国家社会主義化への地ならしとなるものだった(中略)。この事実はFDRがフェビアン社会主義者であることを示している」


▼議会にも知らせずに出された最後通牒

第二はFDR自らが、殆どの権力を集中させ、議会に知らせずに「日本に対する最後通牒を発した。そして戦争への介入に反対する非干渉主義者を徹底的に迫害した。(中略)FDRは世界の半分をスターリンに献上した。そこには中国も含まれる。それはヤルタでの密約の結果であった」

なぜなら「レーニンが立てていた計画の第一段階は東ヨーロッパの共産化であった。それがヤルタ会談で(スターリンはあっけないほど簡単に目標の獲得に)成功したのである。次の狙いが中国の共産化であった。それもスターリンの支援によって成功した」

第三は世界観の誤認であろう。
なぜヤルタ会談でFDRは、そこまでスターリンに譲歩したのか?
「FDRはソビエトに極東方面への参戦を促したかった。満州を含む中国をソビエトに差し上げる。それが条件になったしまった。(中略)戦いでの成果の分配と戦後の和平維持、それがヤルタ会談の目的に筈だった。

しかし結果はスターリンの一人勝ちであった。イギリスはその帝国の殆どを失った。アメリカは朝鮮戦争とベトナム戦争の種をヤルタで貰ったようなものだった。戦後三十年に亘る冷戦の原因を造ったのはヤルタ会談だった。ヤルタへの代表団にはただの一人も共和党員が撰ばれていない。中立系の人物も、経済や財政政策の専門家もいなければ、国際法に精通した人物のいなかった」

つまり病んでいた(肉体的にも精神的にも)FDRの周囲を囲んだスパイらの暗躍とスターリンの工作司令に基づきアメリカの政策を間違った方向へ舵取りし、世紀の謀略の成就に成功したというわけである。

FDRは、ただの政治屋に過ぎず、世紀の陰謀を巡らし、そのためスパイを使いこなしたスターリンはまさに孫子の兵法を見事に実践し、孫子から二千数百年を経て、「出藍の誉れ」の典型的な謀略政治家となったのだ。

マッカーサーは議会証言で「日本は自衛のために戦争に踏み切らざるを得なかった」と言った。
あのGHQの最高司令官でもあったマッカーサーが議会証言でそう言ったことを日本のメディアは軽視した。議会証言の全文は産経「正論」が翻訳掲載したが、リベラルは日本のメディアは黙殺した。

こうみてくるとアメリカを襲う熱狂という危険なムードが国の基本方針を左右に揺らすという体質はまったく変わっておらず、ヒラリーを脅かすサンダース現象も、共和党中枢をがたがたに揺らしたトランプ現象も、過去のパターンと類似しているのである。
(おわり)