内モンゴルには、モンゴル人は2割しかいないアル
内モンゴルは、もう、漢民族のものアル。↓
内モンゴルが独立できなかったのは,清朝末期に漢人農民が大挙侵入してたせい。
内モンゴル自治区とは名前のみで、モンゴル族の自治などどこにもない。
モンゴル民族の精神的な誇り、シンボルである 「チンギス・ ハーン」の話は学校ではあまり取り上げられていない。
内モンゴル自治区の8割以上は漢族であり、漢語ができないと日常生活にも困るようになっている。
長いので、モンゴルに興味がある人だけ読んでね。
~~~~~~~~~~~~
* 【質問】
モンゴルは外蒙古だけとはいえ,よく独立できたなぁ.
他の遊牧国家は全部,中国に併合されたというのに.
【回答】
外モンゴルが独立したのは,モンゴル帝国の後継者ロシア帝国の後継者であるソ連のおかげ.
また,ボグド・ハーン(Богд хаан)活佛が,ジュンガル蒙古からハルハ蒙古へ亡命してきた経緯があり,清朝は,この活佛を冊封して地位を与えていた.
ハルハ蒙古は,この活佛を王として,袁世凱へ朝貢することによって,ハルハ全体が袁世凱から冊封をうける=独立地域認定となった.
この手続きを経ているので,モンゴル国の建国の条件が整っていた.
民族としては,10%程度のカザフ民族を含んでの形なので,モンゴルは,最初から多民族国家だった.
内モンゴルが独立できなかったのは,清朝末期に漢人農民が大挙侵入してたせい.
ただ,外モンゴルでは,モンゴル文字に代わってソ連のキリル文字が普及してしまい,モンゴル文字を残した内モンゴルと,文化的に断絶してしまった.
なお,「中国」というが,中華民国も中華人民共和国も遊牧国家を併合してはいない.
清朝は旧明領(狭義の中国)をも統治した満洲族の征服王朝ではあるが,旧明領には天子皇帝,満洲族やモンゴル諸族には遊牧国家のハーンとして振舞っており,モンゴルやチベットやマンチュリアなどを漢人(狭義の中国人)に統治させたことはない.
** 【質問】
明朝廷が,秀吉の朝鮮割譲要求無視して日本国王叙位だけ与えたのは何だったんだろ?
足利義満時代のカビた先例持ち出して,有り難がって刀納めるに違いないと勘違いしたのか?
それと,京都の帝に対しては,当然"日本国王”秀吉よりさらに上の叙位を与えなければならない筈だけど,そこは明朝廷,どう考えてたの?
【回答】
秀吉や義満が実権を握っていて,天皇家が使節を派遣しているわけではないから,
「なんか天皇とか僭称している奴もいるらしいけど放置」
ぐらいな認識.
だもんで,明治新政府が「天皇」を正面に出して外交文書送った時は,大騒ぎになった.
また,日本と交渉した明の使者が,日本の文章を偽造したから当然,日本の要求なんて伝わってない.
そもそも,明側には負けているとか講和やむなしって考えはないんだから.
この使者は,偽造がバレて処刑された.
ちなみに,日本側の使者も偽造してる.
小西行長「明国は降伏しました.講和を…」
秀吉「よし,降伏使節を来朝させよ.さらに明の皇女を日本の帝に嫁がせ,朝鮮の半分を割譲せよと伝えい」
沈惟敬「秀吉は降伏しました.朝貢(貿易)の再開を要求しています.講和を…」
明朝「よし,降伏使節を来朝させよ.朝貢は許可せぬが日本国王に封じ,順化王の称号と金印を授けよう」
沈惟敬「ど,どうしましょう」
行長「国書を読む人にアドリブを頼んでみます」→駄目でした
秀吉「…なんじゃ,この書状は? もう一回戦争じゃな」
明朝「…なんじゃ,降伏しとらんではないか?」
幸いに行長は周囲のとりなしで,武功を立てて償うことになったが,沈惟敬は帰国後に処刑されたという.
http://mltr.ganriki.net/unc0096w.html
(1) モンゴル民族学校教育の衰退内モンゴル自治区におけるモンゴル民族の生活は、長年続いてきた純粋な遊牧生活から、 1970 年代末頃の定住放牧政策の下で、半農半牧、農業生活へ
と移り、2000 年の「禁牧政策」 (36) 以降は急速に都会生活へと変わることを余儀なくされた。
モンゴル族の定住、都市への移動を受けて、民族学校の集中・統合が進められた。まず、 1970 年代末に「ガチャ」(37) の民族学校を廃して「ソム」に統合し、2000 年 7 月からは「ソム」の学校も廃校となり「旗」に学校を集中させた。
その結果 2002 年には、全自治区の民族小学校数は 1,626 校、中学校 数は 341 校となった。
1979 年の小学校数 4,387 校と中学校数 501 校と比べてみると、小学校数は 2,761 校減って(63% 減)3 分の1になり、中学校数も 160 校減って (32% 減)3 分の 2 となった (38)。
1996 年にはモンゴル族の小中学生に該当する ― 8 ― 中国モンゴル民族学校教育とアイデンティティに関する研究(烏力更)子どもの数は 791,895 人、その内民族学校に通う生徒数は 488,599(61.7%)であったが (39)、 2004 年になると該当する子どもの数は 721,266 人となり、民族学校に通う生徒数は 284,900 (39.3%)人と大幅に減った (40)。
一方、内モンゴル自治区が設立さ れた 1947 年から 2010 年時点に至るまでの、当自治区における漢民族人口の増加は下記のようになっている。
1950 ~ 1961 年の間は、内モンゴル自治区における漢族の第 1 期移 民急増期である。
移民人口は 346 万 1,400 人であり、同期間での内モンゴル地域の全増加人口の 56.6% を占めている、とくに 1958 ~ 1960 年の「大躍進」(41) 時期の増加 人口 225 万 1,000 人のうち、純移民人口は 8 割近く(75.6%)を占め、最も多い 1960 年には 106 万 300 人(96.8%)が移民による人口増であった (42)。
1963 ~ 1978 年までは第 2 期移民増加期である。
この間に 258 万 7,000 人の移民があった (43)。
1969 ~ 1971 年の間では、中国全域で起こった「上山下郷」(44) 運動の中、内モンゴル地域は他の省から 10 万人を越える青年たちを受け入れた。
1971 ~ 1972 年の間に 内モンゴル西部に 25 万人の移民が転入した。
さらに 1973 ~ 1974 年、東部のホロンバイル盟を中心に移民が急増し 26 万人に達した (45)。そして彼らが広大な面積の土地を開墾 し、自然破壊の大きな原因ともなった。
1980 年代に入り、第 3 期移民増加安定期に入り、人口移住は年 20 万人程度になっている (46)。
少数民族地域において漢民族の移住が 急増すれば、漢語の上手なモンゴル人あるいは漢族が少数民族地域の幹部として養成される。
このことは、少数民族の言語、文化及び風俗習慣を喪失させる大きな原因となった。
内モンゴルにおける漢民族大量の移住は、内モンゴルの民族教育に大きな影響を及ぼさざるを得なかった。
以上のような状況を踏まえて、宮脇淳子は「内モンゴル自治区とは名前のみで、モンゴル族の自治などどこにもない」(47) とまで 述べている。
また 1985 年からの身分証の移動が簡便になり (48)、また 2000 年の「西部大開発」(49) 政策により、内モンゴル自治区の 2471 万口 (50) の8割は漢族が占める ことに至り、今日では漢語が話せないと生活できづらい状態となっている。
こういった状態を受け、漢民族社会へ適合するために、わが子を普通学校に通わせるモンゴル族の親も増え、このことも民族学校に通う子どもたちの大幅な減少をもたらす原因となった。(2)
モンゴル民族学校教育中国における現状は、それ以前の問題として、モン ゴル民族学校に通っている生徒たちの多くは、もともと放牧地帯で育っており、漢文化中心の教科書の内容は、生徒たちの生活の中にないものが例として挙げられていることが多く、そのことがモンゴル族の生徒にとって深刻な「文化の中断」そのものとなっており、学力不振の隠れた要因ともなっている。
それにも拘らず、漢族の教師はもとより、モンゴル族の教師までもが、そういった要素に目を向 ― 9 ― 佛教大学大学院紀要 教育学研究科篇 第41号 (2013年3月)けることなく、モンゴル族生徒の学力不振を指して、モンゴル族の子どもは「馬鹿である」「頭が悪い」とか「IQ が低い」などと考えてしまっている傾 向がある。
① 徳育徳育に関しては、1982 年 5 月 19 日国家教育部は「全日制5年制小学校思想道徳課程プログラム」を策定し、これを理論的根拠として幼い頃から子どもに社会主義の正しさを教え、社会主義の「担い手」(接班人)としての意識を育てることを目ざした。
すなわち、思想道徳教育の目的は、1949 年の革命政府樹立以降一貫して社会主義精神文化を育
て、共産党の教育方針を貫徹させることにあり、思想道徳は小学生に対しても社会主義思想を啓蒙するための重要な教科であると位置づけられている。
一方、1992 年 10 月 20 日中央政府は、「民族教育を発 展させる指導綱要」(国務院決定)を発表し、「90 年代の我国の民族教育事業を発展させる目標、方針、任務」の中で、中国は「統一多民族国家」であることを強調した (51)。
しかし思想道徳(品徳)教育な ど、礼儀・価値観といったアイデンティティ形成に大きく影響を与える教育においては、「上の命令を遵守し逆らわない」など、「君臣の道」における漢民族の文化になる儒教思想道徳に基づく「中国的社会主義思想道徳」が柱をなしており、モンゴル民族の自由な民族意識の育成を妨げるものとなっている。
また社会主義教育の名の下に、“ 統一 ” 的な中国国民育成にむけた 教育がなされている。
さらには、漢族は少数民族より優れているという考えを浸透させるため、「中華民族には五千年の文明史がある」、中国における 55 の少数民族は全て「黄帝の末裔」であるとも唱 えられている。
モンゴル民族学校で採用されている教科書『思想政治』においても、中国の四大著書の登場人物の物語が例として多く取りあげられているなど、少数民族の伝統文化は漢族の文化にとって代わられ (52)、さらには 「孔子もモンゴル民族の偉大な祖先になる」(53) といった記述まであり、少数民族の歴史・伝統文化は大きくゆがめられて教えられている。
これらのことは、モンゴル族の子どもや若者において、自らのアイデンティティを形成するうえにおいて思い悩ませ、自己不全に陥らせている大きな原因となっているのである。
② 母語(モンゴル語)小学校の母語教育は、個々 人に応じた全人格的成長を目ざし、生涯にわたる学習生活と労働作業の基礎を培うものとされている。
授業指導の過程では、子どもに対して国家・民族への愛情、社会主義の思想と道徳、科学的な思考方法を培い、子どもの創造力・審美感を陶冶し・健全な個性を高め・良好な人間を形成することが目的とされている (54)。
しかし小中学校の国語(モンゴル語)の教科 書の記述内容はというと、漢民族の歴史に関する項目の数が相当数に上り、モンゴル民族の文化的背景およびモンゴル族児童の実生活からはかけ離れたものが多く、モンゴル族の文化についての学びが軽視されているといわざる ― 10 ― 中
国モンゴル民族学校教育とアイデンティティに関する研究(烏力更)を得ない。
それはモンゴル民族の児童に、唐朝の詩人李白、李紳などの詩歌を暗誦させることはあっても、モンゴル民族の精神的な誇り、シンボルである 「チンギス・ ハーン」の話はあまり取り上げられていないことからも分かる。
教材のなかに鋤禾や麦は出てくるが、競馬やモンゴル相撲が取りあげられることは少ない。
このような、児童の日常生活との間に大きな隔たりがある教材では、モンゴル族の児童の興味を引き出すことは困難であり、唯一母語で書かれた国語の教科書でさえ、モンゴル族児童に民族の一員としての健全な個の確立を支援する教材としては十分ではないといわざるを得ない。
③ 社会社会科の教育目的は、子どもに対して社会生活と現状についての理解 を図り、故郷・祖国・世界の常識・基礎を教育することとある。
幼い頃から物事を正しく捉え、社会に対する理解を培い、社会生活に適応できる基本的能力を育成する (55) ものとされ、愛国主義の教育と啓蒙 の教育を行い、彼らの社会に対する責任感を養うと定められている。
しかし、教科書の内容としてモンゴル民族の今日の苦しい生活状況や、「禁牧政策」などの強いられた生活の変化に関する記述は見あたらない。
モンゴル民族の伝統文化を身につけ、継承していくことができるような内容の拡充が必要であることと併せ、モンゴル民族のおかれた現状を紹介することも重要であろう。
④ 歴史中学校の 歴史においては、子どもに対して社会発展の法則の教育を行い、彼らに正しい歴史意識の基本を育むことを目的としている。
そして子どもに対する愛国主義の教育、社会主義の教育、国勢の教育、革命伝統および民族団結の教育を行い、中華民族 (56) の秀でた文化的伝統を継続発展させ、自民族を尊重する感情と信念を培い、祖国の社会主義建設のために献身する歴史的な責任感をもたせることを目標としている (57)。
このように、歴史のカリキュラム においても、イデオロギー的「思想道徳教育」を重視しており、また、それぞれの自民族を尊重する感情と信念を培うと謳いながら、教科書においては少数民族に対する民族差別があることがはっきり分かる。
すなわち少数民族の名前を記録した漢字には、“ 女 ”、“ 犭 ” などの偏を使い、野蛮、遅れなどの意味を込め、中原地域を侵略 した歴史が語られているのである。
少数民族の歴史は、漢民族の歴史の中では敵人史であり、少数民族を輝かしく語る歴史教科書は、小学校から大学までのものを見てもほとんどないのが実状である。
⑤ 課外活動寄宿生活をし ている生徒たちの遊ぶ時間は、土・日曜日以外では、昼食後から午後の授業開始まで、夕食後から夜の自習開始までである。
子どもたちの伝統的な遊びは、シャガイ(羊 ― 11 ― 佛教大学大学院紀要 教育学 研究科篇 第41号 (2013年3月)やヤギの踝でつくられた玩具、日本のお弾きと同じ遊び方のルールもある)、モンゴル相撲、羊と狼(頭羊が群れを守るという遊び)などである。
それ以外では、授業中で学んだサッカー、バスケットボールなどで遊ぶ。
しかし最近では、内モンゴル自治区でも子どもたちが電子ゲームに興味をもち、伝統的なゲームで遊ぶことは少なくなってきている。
学校 (小学校から 大学卒業まで) では課外活動として、少先隊(中国共産主義青年団、中国共産党)の指導を受ける。小学校入学後志願した子どもの中から、学業・生活態度ともに優秀と認められた者が入隊を許可され、隊員は「紅領巾」と呼ばれる赤いネッカチーフをつける。
その他、幼い頃から社会主義の正しく理解するために、課外活動において中国共産党と社会主義を賞賛した映画を定期的に見せられるのである。
⑥ 総 括本項①から⑤で見てきた具体的教育内容は、革命後のモンゴル人に大きな影響を与え、
1947 年の内モンゴル自治区が成立から 60 年の間に、モンゴル民族(人)は、「モンゴル人」というより「中国人」という意識を強くもつ人たちが増えてきている。
とりわけ近年では、その変化は加速度的になっており、内モンゴル自治区教育庁の統計によると、1996 年の少数民族の子弟が自分の民族言語で教育を受けている率は 61.7%で あったが、わずか 8 年後の 2004 年には 39.3%となっている。
筆者が、2005 年 12 月 28 日から 2006 年1月 10 日にかけて、内モンゴルのモンゴル民族に対して行なった「民族意識に関する実態調査」(58) の結果によると、モンゴル語で教育を受けている大学生の 10.9% と大学院生の 21.4% が、「子どもを民族学校に入れることが子どもの将来のためにならないと思いますか?」という質問に「はい」と回答してている。
「チンギス・ハーンの肖像画を家に飾っていますか?」という質問に、「飾っている」は 66.9%、「飾っていない」は 32.1% と回答している。
「民族衣装は祭り、結婚式に着ますか?」という質問に対して、「着る」と答えた人は 48.1% にとどまっている状況である。
(3) モンゴル民族教育を受けた者たちの現状文化大革命以降しばらくの間、国務院が少数民族地域における民族教育に力を入れたことは事実である。
内モンゴル自治区においては、モンゴル語で教育を受ける学校は師範系の学校に多いが、師範専門学校も次々と復活させ、他の専門学校には民族コースと民族予科コースが設けられた。
そして近年までは、地域の幹部(行政官)を採用するときには、これらの学校の卒業生の中から、成績・人格が優秀で、漢語とモンゴル語両方堪能な教師が選ばれていたというように、就職機会も広がっていた。
しかし 2000 年から始まった「禁牧政策」の下、放牧に従事している人々の多くが「生態移民」
(59) として町に定住し、民族学校がこれまでの 1 村 1 学校から、1鎮(町)1校へと学校数
が減少し、ソム(郡)の合併などの政策が実施された結果、多くの教員が失業するという事態が起っている。
― 12 ―
中国モンゴル民族学校教育とアイデンティティに関する研究(烏力更)
先述したように、内モンゴル自治区の8割以上は漢族であり、漢語ができないと日常生活にも困るようになっている。
またこれまでの漢語とモンゴル語による公文書作成の規定が改められ、漢語のみによる作成も許容されるようになった。
その結果、内モンゴル自治区に新たに進出した会社の一部には、社員を募集する時に「モンゴル語で教育を受けた者は除く」という条件をつけているものもある。
ここでも又、民族教育を受けた若者が就職する上で不利になるような状況が生じている。
以上、様々な要因により、たとえ義務教育だけではなく大学まで進学しても、民族教育を受けたモンゴル族の若者は、より一層就職するのが難しくなっており、かといって自民族の地域社会は実質上縮小してしまったゆえに、故郷の伝統社会に戻ることも困難となっている。
こういった中で、「自分は何者なのか」「何を糧に人生を生きたらよいのか分からない」とい
う、アイデンティティの危機に陥ってしまっているモンゴル族の若者が増えているのが現状
なのである。
第 4 章 少数民族教育と「多元・一体」の「和諧社会」の実現
中国は多くの民族を抱える国である。漢民族を含めた 56 の民族は、特定の空間的条件下で、各々の文化を基盤として一つの中国人(中華民族)という概念を基に発展してきた。
その中で少数民族地域は、地理的に劣位な環境、宗教的な制約、経済的な制限を受け、それぞれの異なる言語・習慣・宗教を持ちつつ、中国における「多元・一体」社会を構成している。
本来中国における「和諧社会」という概念は、「中国人」という枠組の中に、各民族文化
の価値を尊重し、一つの民族の中に呑み込まれることではなく、各民族が平等に発展するこ
とを標榜する社会形態である。
しかし、中国の少数民族学校において今日でも行われている「中国式の特色ある社会主義
国家」という教育理念が、「モンゴル語で話せば恥」と考えるような自文化に対して卑下し、
自己不全感に陥っている若者の増大をもたらしており、「多元・一体」の理念に合致してい
るのかどうか疑問である。
本来の民族教育は、少数民族自身が、中国人であるけれども同時に自民族としての誇りを持ち、自民族の文化を生かしつつ次世代を育てる教育である。
何をなすにしても、自己不全感に陥っていては、たとえ良いものであっても獲得できず、たくま
しく生きていく力も育たない。
急激に変化する中国社会あるいはグローバル社会に、自信をもってはばたく次世代は育たない。
民族学校は、少数民族の自律発展・自己確立にとって重要な役割を果すために設立された
教育機関である。
そこでは伝統文化・民族の歴史を学び発展させ、民族意識を培い、さらにはその時代その時代の社会に適合・活躍できる人材を育成する上で重要な役割を担っている。
そのためには、少数民族学校教育は、まず 55 の少数民族と漢民族を対等に扱い、学校教育、
― 13 ―
佛教大学大学院紀要 教育学研究科篇 第41号 (2013年3月)
入試制度においても実質的平等を確立することである。
そのことにより、各民族の伝統文化を統合し、国家・国民としての文化を創造することができ、まさに「多元・一体」の「和諧 社会」が実現できるのである。
その実現のために、これまで論及してきた諸事項をまとめ、民族学校教育に関して以下の提案をしたい。
1【少数民族の歴史・文化を正しく伝える】
モンゴル民族学校教育の実態はというと、少数民族の歴史・伝統文化は大きくゆがめられ
て教えられている。
「中華民族には五千年の文明史がある」、中国における 55 の少数民族は全て「黄帝の末裔」であるとも唱えられている。
モンゴル民族学校で採用されている教科書『思想政治』においても、中国の四大著書の登場人物の物語を例として多く取りあげられているなど、少数民族の伝統文化は漢族の文化にとって代わられ、さらには「孔子もモンゴル民族の偉大な祖先になる」といった記述まであり、少数民族の歴史・伝統文化は大きくゆがめられて教えられている。
したがって、これらの教科書における恣意的な内容を改め、正しい歴史・文化を伝える内
容を記述した教科書に改めることが不可欠である。
2【少数民族学校数を回復する】
モンゴル草原は広大で、人口が少ない。学校が子どもたちの家から何 10 キロ、もっと遠くは 200 キロも離れた所にあるので、寮で寄宿・集団生活をしている。
しかし 2000 年から始まった「禁牧政策」の下、放牧に従事している人々の多くを「生態移民」として町に定住させ、2000 年 7 月からソムの小学校を廃校とし、旗に小学校を集中させた。
しかし町の生活になじめない人々は、この 10 年間でずいぶん地元の地域に戻っている。
その結果、放牧地域に戻った子どもにとって、民族学校の減少したことが、学校に通うことを困難にしている。
したがって、一部の地域の民族学校を復活させることが必要である。
このことにより、民 族学校教育を受ける子どもの就学率はあがり、若者の就職問題にも役に立つと思われる。
3【各少数民族の歴史・文化を伝える教科書の作成】
今日学校教育で採用している教育は、全国統一的な教材・教育方法・教育評価の方式など
の下に、表面的には平等なものとなっている。
しかし教科書に記載されている内容は、漢文
化の下での生活・社会に基づくものが大半を占め、少数民族の子どもにとって、自分たちの
生活に密着したものはわずかである。
少数民族学校の生徒も、知識・技能の単なる容器や吸取り紙でない (60) ので、自文化にはない内容を基に記された教育は、子どもの興味・関心を引き出していないのが現実である。
実はそのことが、少数民族の子どもに自分自身や民族の一員としての自信や誇りを育むことを阻害する大きな要因となっている。
― 14 ―
中国モンゴル民族学校教育とアイデンティティに関する研究(烏力
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DK/0041/DK00410L001.pdf
チュウゴクの少数民族はいじけるように教育されているようだ。
一般のチュウゴク人も、幼児からの反日教育で自分たちがどれだけ日本にしてやられたか、あることないことを教え込まれる。
常に日本を憎しむような教育を受けている。つまり、チュウゴク人はいじけて育っているから、攻撃的で威張り散らすのである。
劣等感を持っている人ほど、他人に冷たく常に意地悪でちょっとしたことでも、自慢する。
海外に出ても、わがまま放題をして犯罪者まがいのことを平気でして、チュウゴクの恥をさらしている。あ~、恥ずかしい。同じアジア人として情けない事ですなあ。
これでは、いつまでも白人たちに心の底で軽蔑され続けるしかないね。
内モンゴルが独立できなかったのは,清朝末期に漢人農民が大挙侵入してたせい。
内モンゴル自治区とは名前のみで、モンゴル族の自治などどこにもない。
モンゴル民族の精神的な誇り、シンボルである 「チンギス・ ハーン」の話は学校ではあまり取り上げられていない。
内モンゴル自治区の8割以上は漢族であり、漢語ができないと日常生活にも困るようになっている。
長いので、モンゴルに興味がある人だけ読んでね。
~~~~~~~~~~~~
* 【質問】
モンゴルは外蒙古だけとはいえ,よく独立できたなぁ.
他の遊牧国家は全部,中国に併合されたというのに.
【回答】
外モンゴルが独立したのは,モンゴル帝国の後継者ロシア帝国の後継者であるソ連のおかげ.
また,ボグド・ハーン(Богд хаан)活佛が,ジュンガル蒙古からハルハ蒙古へ亡命してきた経緯があり,清朝は,この活佛を冊封して地位を与えていた.
ハルハ蒙古は,この活佛を王として,袁世凱へ朝貢することによって,ハルハ全体が袁世凱から冊封をうける=独立地域認定となった.
この手続きを経ているので,モンゴル国の建国の条件が整っていた.
民族としては,10%程度のカザフ民族を含んでの形なので,モンゴルは,最初から多民族国家だった.
内モンゴルが独立できなかったのは,清朝末期に漢人農民が大挙侵入してたせい.
ただ,外モンゴルでは,モンゴル文字に代わってソ連のキリル文字が普及してしまい,モンゴル文字を残した内モンゴルと,文化的に断絶してしまった.
なお,「中国」というが,中華民国も中華人民共和国も遊牧国家を併合してはいない.
清朝は旧明領(狭義の中国)をも統治した満洲族の征服王朝ではあるが,旧明領には天子皇帝,満洲族やモンゴル諸族には遊牧国家のハーンとして振舞っており,モンゴルやチベットやマンチュリアなどを漢人(狭義の中国人)に統治させたことはない.
** 【質問】
明朝廷が,秀吉の朝鮮割譲要求無視して日本国王叙位だけ与えたのは何だったんだろ?
足利義満時代のカビた先例持ち出して,有り難がって刀納めるに違いないと勘違いしたのか?
それと,京都の帝に対しては,当然"日本国王”秀吉よりさらに上の叙位を与えなければならない筈だけど,そこは明朝廷,どう考えてたの?
【回答】
秀吉や義満が実権を握っていて,天皇家が使節を派遣しているわけではないから,
「なんか天皇とか僭称している奴もいるらしいけど放置」
ぐらいな認識.
だもんで,明治新政府が「天皇」を正面に出して外交文書送った時は,大騒ぎになった.
また,日本と交渉した明の使者が,日本の文章を偽造したから当然,日本の要求なんて伝わってない.
そもそも,明側には負けているとか講和やむなしって考えはないんだから.
この使者は,偽造がバレて処刑された.
ちなみに,日本側の使者も偽造してる.
小西行長「明国は降伏しました.講和を…」
秀吉「よし,降伏使節を来朝させよ.さらに明の皇女を日本の帝に嫁がせ,朝鮮の半分を割譲せよと伝えい」
沈惟敬「秀吉は降伏しました.朝貢(貿易)の再開を要求しています.講和を…」
明朝「よし,降伏使節を来朝させよ.朝貢は許可せぬが日本国王に封じ,順化王の称号と金印を授けよう」
沈惟敬「ど,どうしましょう」
行長「国書を読む人にアドリブを頼んでみます」→駄目でした
秀吉「…なんじゃ,この書状は? もう一回戦争じゃな」
明朝「…なんじゃ,降伏しとらんではないか?」
幸いに行長は周囲のとりなしで,武功を立てて償うことになったが,沈惟敬は帰国後に処刑されたという.
http://mltr.ganriki.net/unc0096w.html
(1) モンゴル民族学校教育の衰退内モンゴル自治区におけるモンゴル民族の生活は、長年続いてきた純粋な遊牧生活から、 1970 年代末頃の定住放牧政策の下で、半農半牧、農業生活へ
と移り、2000 年の「禁牧政策」 (36) 以降は急速に都会生活へと変わることを余儀なくされた。
モンゴル族の定住、都市への移動を受けて、民族学校の集中・統合が進められた。まず、 1970 年代末に「ガチャ」(37) の民族学校を廃して「ソム」に統合し、2000 年 7 月からは「ソム」の学校も廃校となり「旗」に学校を集中させた。
その結果 2002 年には、全自治区の民族小学校数は 1,626 校、中学校 数は 341 校となった。
1979 年の小学校数 4,387 校と中学校数 501 校と比べてみると、小学校数は 2,761 校減って(63% 減)3 分の1になり、中学校数も 160 校減って (32% 減)3 分の 2 となった (38)。
1996 年にはモンゴル族の小中学生に該当する ― 8 ― 中国モンゴル民族学校教育とアイデンティティに関する研究(烏力更)子どもの数は 791,895 人、その内民族学校に通う生徒数は 488,599(61.7%)であったが (39)、 2004 年になると該当する子どもの数は 721,266 人となり、民族学校に通う生徒数は 284,900 (39.3%)人と大幅に減った (40)。
一方、内モンゴル自治区が設立さ れた 1947 年から 2010 年時点に至るまでの、当自治区における漢民族人口の増加は下記のようになっている。
1950 ~ 1961 年の間は、内モンゴル自治区における漢族の第 1 期移 民急増期である。
移民人口は 346 万 1,400 人であり、同期間での内モンゴル地域の全増加人口の 56.6% を占めている、とくに 1958 ~ 1960 年の「大躍進」(41) 時期の増加 人口 225 万 1,000 人のうち、純移民人口は 8 割近く(75.6%)を占め、最も多い 1960 年には 106 万 300 人(96.8%)が移民による人口増であった (42)。
1963 ~ 1978 年までは第 2 期移民増加期である。
この間に 258 万 7,000 人の移民があった (43)。
1969 ~ 1971 年の間では、中国全域で起こった「上山下郷」(44) 運動の中、内モンゴル地域は他の省から 10 万人を越える青年たちを受け入れた。
1971 ~ 1972 年の間に 内モンゴル西部に 25 万人の移民が転入した。
さらに 1973 ~ 1974 年、東部のホロンバイル盟を中心に移民が急増し 26 万人に達した (45)。そして彼らが広大な面積の土地を開墾 し、自然破壊の大きな原因ともなった。
1980 年代に入り、第 3 期移民増加安定期に入り、人口移住は年 20 万人程度になっている (46)。
少数民族地域において漢民族の移住が 急増すれば、漢語の上手なモンゴル人あるいは漢族が少数民族地域の幹部として養成される。
このことは、少数民族の言語、文化及び風俗習慣を喪失させる大きな原因となった。
内モンゴルにおける漢民族大量の移住は、内モンゴルの民族教育に大きな影響を及ぼさざるを得なかった。
以上のような状況を踏まえて、宮脇淳子は「内モンゴル自治区とは名前のみで、モンゴル族の自治などどこにもない」(47) とまで 述べている。
また 1985 年からの身分証の移動が簡便になり (48)、また 2000 年の「西部大開発」(49) 政策により、内モンゴル自治区の 2471 万口 (50) の8割は漢族が占める ことに至り、今日では漢語が話せないと生活できづらい状態となっている。
こういった状態を受け、漢民族社会へ適合するために、わが子を普通学校に通わせるモンゴル族の親も増え、このことも民族学校に通う子どもたちの大幅な減少をもたらす原因となった。(2)
モンゴル民族学校教育中国における現状は、それ以前の問題として、モン ゴル民族学校に通っている生徒たちの多くは、もともと放牧地帯で育っており、漢文化中心の教科書の内容は、生徒たちの生活の中にないものが例として挙げられていることが多く、そのことがモンゴル族の生徒にとって深刻な「文化の中断」そのものとなっており、学力不振の隠れた要因ともなっている。
それにも拘らず、漢族の教師はもとより、モンゴル族の教師までもが、そういった要素に目を向 ― 9 ― 佛教大学大学院紀要 教育学研究科篇 第41号 (2013年3月)けることなく、モンゴル族生徒の学力不振を指して、モンゴル族の子どもは「馬鹿である」「頭が悪い」とか「IQ が低い」などと考えてしまっている傾 向がある。
① 徳育徳育に関しては、1982 年 5 月 19 日国家教育部は「全日制5年制小学校思想道徳課程プログラム」を策定し、これを理論的根拠として幼い頃から子どもに社会主義の正しさを教え、社会主義の「担い手」(接班人)としての意識を育てることを目ざした。
すなわち、思想道徳教育の目的は、1949 年の革命政府樹立以降一貫して社会主義精神文化を育
て、共産党の教育方針を貫徹させることにあり、思想道徳は小学生に対しても社会主義思想を啓蒙するための重要な教科であると位置づけられている。
一方、1992 年 10 月 20 日中央政府は、「民族教育を発 展させる指導綱要」(国務院決定)を発表し、「90 年代の我国の民族教育事業を発展させる目標、方針、任務」の中で、中国は「統一多民族国家」であることを強調した (51)。
しかし思想道徳(品徳)教育な ど、礼儀・価値観といったアイデンティティ形成に大きく影響を与える教育においては、「上の命令を遵守し逆らわない」など、「君臣の道」における漢民族の文化になる儒教思想道徳に基づく「中国的社会主義思想道徳」が柱をなしており、モンゴル民族の自由な民族意識の育成を妨げるものとなっている。
また社会主義教育の名の下に、“ 統一 ” 的な中国国民育成にむけた 教育がなされている。
さらには、漢族は少数民族より優れているという考えを浸透させるため、「中華民族には五千年の文明史がある」、中国における 55 の少数民族は全て「黄帝の末裔」であるとも唱 えられている。
モンゴル民族学校で採用されている教科書『思想政治』においても、中国の四大著書の登場人物の物語が例として多く取りあげられているなど、少数民族の伝統文化は漢族の文化にとって代わられ (52)、さらには 「孔子もモンゴル民族の偉大な祖先になる」(53) といった記述まであり、少数民族の歴史・伝統文化は大きくゆがめられて教えられている。
これらのことは、モンゴル族の子どもや若者において、自らのアイデンティティを形成するうえにおいて思い悩ませ、自己不全に陥らせている大きな原因となっているのである。
② 母語(モンゴル語)小学校の母語教育は、個々 人に応じた全人格的成長を目ざし、生涯にわたる学習生活と労働作業の基礎を培うものとされている。
授業指導の過程では、子どもに対して国家・民族への愛情、社会主義の思想と道徳、科学的な思考方法を培い、子どもの創造力・審美感を陶冶し・健全な個性を高め・良好な人間を形成することが目的とされている (54)。
しかし小中学校の国語(モンゴル語)の教科 書の記述内容はというと、漢民族の歴史に関する項目の数が相当数に上り、モンゴル民族の文化的背景およびモンゴル族児童の実生活からはかけ離れたものが多く、モンゴル族の文化についての学びが軽視されているといわざる ― 10 ― 中
国モンゴル民族学校教育とアイデンティティに関する研究(烏力更)を得ない。
それはモンゴル民族の児童に、唐朝の詩人李白、李紳などの詩歌を暗誦させることはあっても、モンゴル民族の精神的な誇り、シンボルである 「チンギス・ ハーン」の話はあまり取り上げられていないことからも分かる。
教材のなかに鋤禾や麦は出てくるが、競馬やモンゴル相撲が取りあげられることは少ない。
このような、児童の日常生活との間に大きな隔たりがある教材では、モンゴル族の児童の興味を引き出すことは困難であり、唯一母語で書かれた国語の教科書でさえ、モンゴル族児童に民族の一員としての健全な個の確立を支援する教材としては十分ではないといわざるを得ない。
③ 社会社会科の教育目的は、子どもに対して社会生活と現状についての理解 を図り、故郷・祖国・世界の常識・基礎を教育することとある。
幼い頃から物事を正しく捉え、社会に対する理解を培い、社会生活に適応できる基本的能力を育成する (55) ものとされ、愛国主義の教育と啓蒙 の教育を行い、彼らの社会に対する責任感を養うと定められている。
しかし、教科書の内容としてモンゴル民族の今日の苦しい生活状況や、「禁牧政策」などの強いられた生活の変化に関する記述は見あたらない。
モンゴル民族の伝統文化を身につけ、継承していくことができるような内容の拡充が必要であることと併せ、モンゴル民族のおかれた現状を紹介することも重要であろう。
④ 歴史中学校の 歴史においては、子どもに対して社会発展の法則の教育を行い、彼らに正しい歴史意識の基本を育むことを目的としている。
そして子どもに対する愛国主義の教育、社会主義の教育、国勢の教育、革命伝統および民族団結の教育を行い、中華民族 (56) の秀でた文化的伝統を継続発展させ、自民族を尊重する感情と信念を培い、祖国の社会主義建設のために献身する歴史的な責任感をもたせることを目標としている (57)。
このように、歴史のカリキュラム においても、イデオロギー的「思想道徳教育」を重視しており、また、それぞれの自民族を尊重する感情と信念を培うと謳いながら、教科書においては少数民族に対する民族差別があることがはっきり分かる。
すなわち少数民族の名前を記録した漢字には、“ 女 ”、“ 犭 ” などの偏を使い、野蛮、遅れなどの意味を込め、中原地域を侵略 した歴史が語られているのである。
少数民族の歴史は、漢民族の歴史の中では敵人史であり、少数民族を輝かしく語る歴史教科書は、小学校から大学までのものを見てもほとんどないのが実状である。
⑤ 課外活動寄宿生活をし ている生徒たちの遊ぶ時間は、土・日曜日以外では、昼食後から午後の授業開始まで、夕食後から夜の自習開始までである。
子どもたちの伝統的な遊びは、シャガイ(羊 ― 11 ― 佛教大学大学院紀要 教育学 研究科篇 第41号 (2013年3月)やヤギの踝でつくられた玩具、日本のお弾きと同じ遊び方のルールもある)、モンゴル相撲、羊と狼(頭羊が群れを守るという遊び)などである。
それ以外では、授業中で学んだサッカー、バスケットボールなどで遊ぶ。
しかし最近では、内モンゴル自治区でも子どもたちが電子ゲームに興味をもち、伝統的なゲームで遊ぶことは少なくなってきている。
学校 (小学校から 大学卒業まで) では課外活動として、少先隊(中国共産主義青年団、中国共産党)の指導を受ける。小学校入学後志願した子どもの中から、学業・生活態度ともに優秀と認められた者が入隊を許可され、隊員は「紅領巾」と呼ばれる赤いネッカチーフをつける。
その他、幼い頃から社会主義の正しく理解するために、課外活動において中国共産党と社会主義を賞賛した映画を定期的に見せられるのである。
⑥ 総 括本項①から⑤で見てきた具体的教育内容は、革命後のモンゴル人に大きな影響を与え、
1947 年の内モンゴル自治区が成立から 60 年の間に、モンゴル民族(人)は、「モンゴル人」というより「中国人」という意識を強くもつ人たちが増えてきている。
とりわけ近年では、その変化は加速度的になっており、内モンゴル自治区教育庁の統計によると、1996 年の少数民族の子弟が自分の民族言語で教育を受けている率は 61.7%で あったが、わずか 8 年後の 2004 年には 39.3%となっている。
筆者が、2005 年 12 月 28 日から 2006 年1月 10 日にかけて、内モンゴルのモンゴル民族に対して行なった「民族意識に関する実態調査」(58) の結果によると、モンゴル語で教育を受けている大学生の 10.9% と大学院生の 21.4% が、「子どもを民族学校に入れることが子どもの将来のためにならないと思いますか?」という質問に「はい」と回答してている。
「チンギス・ハーンの肖像画を家に飾っていますか?」という質問に、「飾っている」は 66.9%、「飾っていない」は 32.1% と回答している。
「民族衣装は祭り、結婚式に着ますか?」という質問に対して、「着る」と答えた人は 48.1% にとどまっている状況である。
(3) モンゴル民族教育を受けた者たちの現状文化大革命以降しばらくの間、国務院が少数民族地域における民族教育に力を入れたことは事実である。
内モンゴル自治区においては、モンゴル語で教育を受ける学校は師範系の学校に多いが、師範専門学校も次々と復活させ、他の専門学校には民族コースと民族予科コースが設けられた。
そして近年までは、地域の幹部(行政官)を採用するときには、これらの学校の卒業生の中から、成績・人格が優秀で、漢語とモンゴル語両方堪能な教師が選ばれていたというように、就職機会も広がっていた。
しかし 2000 年から始まった「禁牧政策」の下、放牧に従事している人々の多くが「生態移民」
(59) として町に定住し、民族学校がこれまでの 1 村 1 学校から、1鎮(町)1校へと学校数
が減少し、ソム(郡)の合併などの政策が実施された結果、多くの教員が失業するという事態が起っている。
― 12 ―
中国モンゴル民族学校教育とアイデンティティに関する研究(烏力更)
先述したように、内モンゴル自治区の8割以上は漢族であり、漢語ができないと日常生活にも困るようになっている。
またこれまでの漢語とモンゴル語による公文書作成の規定が改められ、漢語のみによる作成も許容されるようになった。
その結果、内モンゴル自治区に新たに進出した会社の一部には、社員を募集する時に「モンゴル語で教育を受けた者は除く」という条件をつけているものもある。
ここでも又、民族教育を受けた若者が就職する上で不利になるような状況が生じている。
以上、様々な要因により、たとえ義務教育だけではなく大学まで進学しても、民族教育を受けたモンゴル族の若者は、より一層就職するのが難しくなっており、かといって自民族の地域社会は実質上縮小してしまったゆえに、故郷の伝統社会に戻ることも困難となっている。
こういった中で、「自分は何者なのか」「何を糧に人生を生きたらよいのか分からない」とい
う、アイデンティティの危機に陥ってしまっているモンゴル族の若者が増えているのが現状
なのである。
第 4 章 少数民族教育と「多元・一体」の「和諧社会」の実現
中国は多くの民族を抱える国である。漢民族を含めた 56 の民族は、特定の空間的条件下で、各々の文化を基盤として一つの中国人(中華民族)という概念を基に発展してきた。
その中で少数民族地域は、地理的に劣位な環境、宗教的な制約、経済的な制限を受け、それぞれの異なる言語・習慣・宗教を持ちつつ、中国における「多元・一体」社会を構成している。
本来中国における「和諧社会」という概念は、「中国人」という枠組の中に、各民族文化
の価値を尊重し、一つの民族の中に呑み込まれることではなく、各民族が平等に発展するこ
とを標榜する社会形態である。
しかし、中国の少数民族学校において今日でも行われている「中国式の特色ある社会主義
国家」という教育理念が、「モンゴル語で話せば恥」と考えるような自文化に対して卑下し、
自己不全感に陥っている若者の増大をもたらしており、「多元・一体」の理念に合致してい
るのかどうか疑問である。
本来の民族教育は、少数民族自身が、中国人であるけれども同時に自民族としての誇りを持ち、自民族の文化を生かしつつ次世代を育てる教育である。
何をなすにしても、自己不全感に陥っていては、たとえ良いものであっても獲得できず、たくま
しく生きていく力も育たない。
急激に変化する中国社会あるいはグローバル社会に、自信をもってはばたく次世代は育たない。
民族学校は、少数民族の自律発展・自己確立にとって重要な役割を果すために設立された
教育機関である。
そこでは伝統文化・民族の歴史を学び発展させ、民族意識を培い、さらにはその時代その時代の社会に適合・活躍できる人材を育成する上で重要な役割を担っている。
そのためには、少数民族学校教育は、まず 55 の少数民族と漢民族を対等に扱い、学校教育、
― 13 ―
佛教大学大学院紀要 教育学研究科篇 第41号 (2013年3月)
入試制度においても実質的平等を確立することである。
そのことにより、各民族の伝統文化を統合し、国家・国民としての文化を創造することができ、まさに「多元・一体」の「和諧 社会」が実現できるのである。
その実現のために、これまで論及してきた諸事項をまとめ、民族学校教育に関して以下の提案をしたい。
1【少数民族の歴史・文化を正しく伝える】
モンゴル民族学校教育の実態はというと、少数民族の歴史・伝統文化は大きくゆがめられ
て教えられている。
「中華民族には五千年の文明史がある」、中国における 55 の少数民族は全て「黄帝の末裔」であるとも唱えられている。
モンゴル民族学校で採用されている教科書『思想政治』においても、中国の四大著書の登場人物の物語を例として多く取りあげられているなど、少数民族の伝統文化は漢族の文化にとって代わられ、さらには「孔子もモンゴル民族の偉大な祖先になる」といった記述まであり、少数民族の歴史・伝統文化は大きくゆがめられて教えられている。
したがって、これらの教科書における恣意的な内容を改め、正しい歴史・文化を伝える内
容を記述した教科書に改めることが不可欠である。
2【少数民族学校数を回復する】
モンゴル草原は広大で、人口が少ない。学校が子どもたちの家から何 10 キロ、もっと遠くは 200 キロも離れた所にあるので、寮で寄宿・集団生活をしている。
しかし 2000 年から始まった「禁牧政策」の下、放牧に従事している人々の多くを「生態移民」として町に定住させ、2000 年 7 月からソムの小学校を廃校とし、旗に小学校を集中させた。
しかし町の生活になじめない人々は、この 10 年間でずいぶん地元の地域に戻っている。
その結果、放牧地域に戻った子どもにとって、民族学校の減少したことが、学校に通うことを困難にしている。
したがって、一部の地域の民族学校を復活させることが必要である。
このことにより、民 族学校教育を受ける子どもの就学率はあがり、若者の就職問題にも役に立つと思われる。
3【各少数民族の歴史・文化を伝える教科書の作成】
今日学校教育で採用している教育は、全国統一的な教材・教育方法・教育評価の方式など
の下に、表面的には平等なものとなっている。
しかし教科書に記載されている内容は、漢文
化の下での生活・社会に基づくものが大半を占め、少数民族の子どもにとって、自分たちの
生活に密着したものはわずかである。
少数民族学校の生徒も、知識・技能の単なる容器や吸取り紙でない (60) ので、自文化にはない内容を基に記された教育は、子どもの興味・関心を引き出していないのが現実である。
実はそのことが、少数民族の子どもに自分自身や民族の一員としての自信や誇りを育むことを阻害する大きな要因となっている。
― 14 ―
中国モンゴル民族学校教育とアイデンティティに関する研究(烏力
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DK/0041/DK00410L001.pdf
チュウゴクの少数民族はいじけるように教育されているようだ。
一般のチュウゴク人も、幼児からの反日教育で自分たちがどれだけ日本にしてやられたか、あることないことを教え込まれる。
常に日本を憎しむような教育を受けている。つまり、チュウゴク人はいじけて育っているから、攻撃的で威張り散らすのである。
劣等感を持っている人ほど、他人に冷たく常に意地悪でちょっとしたことでも、自慢する。
海外に出ても、わがまま放題をして犯罪者まがいのことを平気でして、チュウゴクの恥をさらしている。あ~、恥ずかしい。同じアジア人として情けない事ですなあ。
これでは、いつまでも白人たちに心の底で軽蔑され続けるしかないね。